『幻影の書』読書メモ

オースター作品を読むのは8ヶ月ぶりらしい。『幻影の書』でオースターは、物語を物語として語る勇気を獲得しているように見える。小説の中にはいくつもの大小軽重の物語がでてくるが、これらの物語一つ一つについて、これは真実らしい、これはデタラメだ、という評価をすることが可能になっている。『幻影の書』は、物語が真実性を獲得するためにの条件を課す。それは、見たものが、体験したことが、書けることが、真実であるというものである。だから、『幻影の書』での真実は、『幻影の書』の著者という立場を獲得することになる、主人公の大学教授が担っている。


オースター作品の主人公たちは、みな、よく知っているはずの男を追って旅をすることになる。主人公は彼をよく知っているが、彼は失踪して、主人公の前から姿を消しているのだ。今作の失踪者は、ヘクター・マンという昔の喜劇映画の俳優である。オースター作品に必ずでてくる「ユダヤ人」の座を締めているのも、このヘクターである。


よく知っているはずの失踪者を追いかけるというモチーフにおいて、わたしは物語の主人公に共感する。失踪者は神のメタファーになる。わたしたちは奇妙な縁を持って神=失踪者に出会いつづけるのに、決して到達できない。


真実の物語は、罪の意識に駆られ、死へ向かおうとする主人公を、生かすための物語として機能する。物語ることが、主人公を生かすのである。逆に、途絶えてしまった物語は死をもたらす。ヘクターの「誰にも見られない映画を作るという物語」、主人公の恋人による「ヘクターの人生の物語」はそれぞれ途絶え、死をもたらした。主人公が描く『幻影の書』は、この二人の死を、二人の物語を、内包している。主人公の物語は、語ることができるから真実なのであり、語ることができるのは生きているからだ。


失踪したはずの男と出会ってしまったら、つまり神と出会ってしまったら、つまり欲望の対象に到達してしまうことは、死を意味するのではないのだろうか。オースターは、この問を無効化することを巧妙に避けている。なぜなら、主人公がヘクターにであったとき、主人公はヘクターを欲望していない。主人公が欲望しているのは、ヘクターの家で育った若い女、主人公の恋人である。物語の最後、失踪者の位置を占めるのは、ヘクターではなく、ヘクターが作った映画へと、すり替わるのである。主人公は失踪者へ到達できず、故に生き続ける。

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