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唐組『透明人間』観劇メモ@新宿花園神社

唐組の春公演『透明人間』を新宿の花園神社で観てきた。始めて唐組の公演を観たのは2019年の『ジャガーの眼』なので、もう4年ほど劇団を追っていることになる。全部は観られていない代わりに、他のいくつかの劇団で唐作品を観てきたが、特に好きだったのは唐組『ビニールの城』、唐ゼミ☆『唐版・風の又三郎』だ。

最近の唐組は1幕と2幕の間の休憩で場面転換をせずに劇を通して一つの場所で物語が展開することが多いが、今回の『透明人間』もそうだった。舞台は居酒屋の二階席で、下手には襖で区切られた座敷、上手には一階と繋がる階段がある。

今回の芝居は、私が今までに観た唐組の芝居とは全く違った。そういう感想を抱いたのは、配役のせいだと思う。私の中での唐組の定石といえば、ヒロイン・藤井由紀と稲荷卓央のカップルがメインなのだが、今回のヒロインのモモを演じたのは大鶴美仁音で、モモと(おそらくプラトニックな)関係をもつ田口を演じた岡田優は初めて見る方だった。今回の芝居でも藤井演じる偽モモと稲荷演じる辻がカップルとなる。唐組の芝居では、クライマックスで舞台崩しがあり、大抵、舞台の奥に空いた大きな穴に二人が消えていく。そうして二人は永遠になる。永遠になるということは、舞台の上を流れていた直線の時間上の上から姿を消す、つまり二人の未来がなくなるということである。唐十郎作品のカタルシスは、必ず直線上の時間をぶった切るようにしておとずれる、と私は思っている。二人はどうなってしまうのか分からない。ただ、永遠になる。しかし、今回は藤井と稲荷の物語ではない。だから稲荷演じる辻が劇の終盤で死んでも、藤井演じる女は生き続け、仕事を掛け持ちしながら生活していることが田口の口から語られる。彼女の時間は途切れておらず、これからもそうして生活していくであろうことが想像される。

今回の劇のタイトルである「透明人間」とは、結局どのような意味だったのだろう。劇中ではじめて「透明人間」という言葉が出てくるのは分裂症の白川先生についての会話の中であり、白川先生が意味不明なことを言い出したとき、生徒たちはそれを透明人間のせいだということにしているらしい。白川先生は透明人間などいません、といって、黒板消しを投げる。白川先生が退場するときに舞台を指して(?)言う、「ああ、此処こそが教室!」というセリフが、透明人間とは何かという問に密接に関わっている気がする。
また、田口は、辻によって退場させられたモモの手を引いて焼き鳥屋の2階に上がってきて、「僕たちは透明人間なんかじゃないんだから」と、モモを力づけようとする。
もう一度観に行くつもりなので、安易に答えを出さず、この問は持ち越しとしたい。

余談。今回同行した弟とも話したのだが、唐組に限らず、演劇を観ていて、周りの人が笑っているのがなぜだかよく分からないことがある。例えば、悲しいシーンでユーモラスなセリフが飛び出し、よりそのシーンが切なさを増したとき、観客は笑うべきだろうか。私はこういうとき面白いとは思えないのだが、こういうときに笑い声を上げる人は、文脈に関係なく「ユーモアが発された」ということに反応しているのだろうか?それとも、文脈を汲んだうえで面白いと思って笑っているのだろうか?もちろん、笑うべき/笑うべきでない、という区別など本来ないと思うが、どうして笑うのか、とても気になる。


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