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透明人間とはなにか?唐組考察

唐組「透明人間」の花園神社公演を見てから、ずっと「透明人間」とは何なのかを考えている。劇の中で「透明人間」は、3つの具体的な姿をもって描かれていると思う。

①辻の父

荒井高子『唐十郎のせりふ』で指摘されていたように、辻にとっての「透明人間」とは第二次世界大戦を経験した辻の父であろう。辻は父の物語を引き継ぎ、全国各地でモモと呼ばれる風俗嬢を足抜けさせていく。この例から観れば、透明人間とは、その場にいないのに場を支配するような存在のことだ。

②白川先生の欲望

もっとも「透明人間」というセリフを多く発するのはマサヤ少年であり、話題は白川先生の分裂症についてである。白川先生が教室でおかしなことを言い始めたとき、生徒たちは白川先生が透明人間に言わされているのだと仮定する。そして廊下の方を指さして透明人間、透明人間!と叫んだ。すると、白川先生がそんなものはいない!と言って黒板消しを投げたのだという。
マサヤ少年は二度目に登場したとき、この黒板消しを投げる行為の意味を以下のように解釈する。

しかし、僕には分かる。先生が苦しまぎれで黒板消しを投げる時、とらえどころのない欲求を白墨だらけにしようとしてると。そうして先生は見てるんじゃないのか、白墨だらけになった欲望が、こりゃ参ったと、後ろ姿で逃げて行くのを。

『少女都市からの呼び声 戯曲篇』唐十郎、右文書院、2008年。p.117。

マサヤのセリフの中で、透明人間とは、とらえどころのない欲望のメタファーである。マサヤは焼き鳥屋の二階に透明人間を見つけたと主張するが、白川先生に「それはあんたのじゃないでしょう!」「他人の透明人間でしょ。」と言われ、「他人の透明人間は、僕の透明人間にならないの?」と問う。

③水槽の中へ姿を消していく人々

この劇を通して「透明」になりそうになっている人物といえば、モモだろう。モモは1幕の終わりに辻によって水槽へ突き落とされ、姿を消してしまう。田口に手を引かれて戻ってきたモモは、モモ似によって仕事や衣装を奪われており、また元々言葉がつっかえてしまうため、自分の思ったことをそのまま言葉で伝えることができない。田口はモモを「透明人間になったわけじゃないし……」と励ますが、モモは透明人間になりかかっているようにみえる。
また、辻は上田に撃たれて血のかわりに水鉄砲を吹いてモモにぶっかけた後、水槽の中へ落ちたまま浮かんで来ない。これも透明の比喩に思える。
そして最後のシーン、モモが田口を水の中に引き下ろした後、戯曲は以下の文で締まる。

二人とも、没して見えない。雨、また降り、トイから水槽に流れ込む。その水しぶきは白墨の粉のよう。

同上、p.137。


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