『リヴァイアサン』読書感想文

オースター作品から2カ月離れていたが、また読んでみた。

オースターの初期の傑作であるニューヨーク三部作と、その後の『ムーンパレス』『オラクル・ナイト』『リヴァイアサン』などの作品は、同じようなモチーフを繰り返し用いながらも、明らかに提示の仕方が違う。

『リヴァイアサン』ではニューヨーク三部作や他の作品と同じく、語り手の親友の突然の失踪、探偵が尾行するのは自分の依頼主である、といったモチーフが登場する。ニューヨーク三部作では、これらは謎として提示され、語り手である主人公がその謎に迫ろうとしても、さらなる謎が提示されるだけである。

だが、『リヴァイアサン』では、その謎に対する、答えというべき物語が提示される。失踪した側、探偵に自分の尾行を依頼した側が語るための物語を持っているためだ。それを書き留める人物が、そして物語を物語る人物が信頼できない語り手であるとはいえ、なにがどうして起こったのかということに対する、当座の準則とも言うべき一応の答えが示されるのである。

オースターがセルフパロディを通して自らの作品の神秘を解き明かしているようで、いつも裏切られたような、寂しい気分になる。運命の偶然によって起こりうることとして貶められているような感じがする。

謎が謎として機能せず、真偽の分からないうやむやに巻かれ、それぞれの物語は交わっては通り過ぎていく。人生における諦念を目の前に差し出されているようだ。

予期せぬ突然の遺産によって主人公が小金持ちになるというモチーフも繰り返し出てくるものではあるが、『リヴァイアサン』ではそれが負の遺産、つまり負債として描かれていたのが、今まで私が読んだオースター作品にはない観点だと思った。いままで、金を使いきるにせよ、使い切る前に失うにせよ、遺産を得たものにとっては、金は自分を救い、人生における良い方向へと導いてくれるものだった。
しかし今回、自分が殺した男が残した大量の現金を抱えたサックスは、その金を殺した男の妻、リリアンへ渡すために旅立つ。サックスは自分にとっては負債であるその金はリリアンにとっては当然の資産だと考えるが、リリアンの態度と言葉は、それが彼女にとってもまた負債であり、借方ではなく貸方に記帳されるものだということを示している。


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