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私の闘病生活の全て

こんにちは。今回は私が以前、下のこの投稿にも書いたように、顕微鏡的多発血管炎という難病、いわゆる慢性腎不全を患っていたときの話をしようと思います。


1.病気の判明

病気が判明する前は、一人暮らしをしていて、大学に通っていました。その頃(2021年1月末)は、春休み前のテスト期間だったのですが、なんのやる気も起こらず、趣味をするにも、お風呂に入ったり、ご飯を食べるのも億劫でした。眠気がすごかったり、何を食べても飲んでも、口に入れなくても、嘔吐が止まらず、顔を中心に浮腫が酷くなりました。浮腫が出る前に、1度一人で、辛い中病院に行ったのですが、胃腸炎だね~と言われて、薬を出されて終わってしまいました。尿検査だったり採血をしないと、病気を見つけるのは難しかったのでしょうね…

あまりにもおかしいということで、母が心配し、私を迎えに来てくれ、実家で過ごすことにしました。しばらくは、体調も落ち着いていたのですが、やはり何を食べても飲んでも吐いてしまうようになりました。ご時世上、県外からの帰省ということで、なかなか診てくれる病院を見つけるのが大変だったのですが、保健所に電話し、なんとか病院を見つけ、受診に向かいました。

尿検査、血液検査、レントゲンなど色々行い、後日先生から『もう危篤な状態だから、今すぐに紹介状持たせるから大学病院に行って!!』と電話がかかってきました。

朝はわりと元気だったので、ゆっくり準備をしていたのですが、車に乗った瞬間、嘔吐が止まらなくなり、歩くことも出来なくなりました。

そこからは、何となくでしか覚えてないのですが、救急治療室に運ばれ、局所麻酔で首の血管に管を何本か刺され、透析室に運ばれ、3時間透析をしました。後日先生から聞いた話によると、私の体調は100点満点中の3点くらいだったらしく、いつパタッと死んでいてもおかしくなかったらしいです。母が迎えに来てくれなかったら…と思うと、すごい怖い。

点滴、透析治療をしたり、様々な検査を重ね、約1ヶ月後の、3月頃に退院することが出来ました。


私の病気は、家族や親戚に腎臓病を患った人もいないので、発症した原因が不明で、ステロイドパルス療法を行っても、病状が既に悪化していたため、治ることはありませんでした。腎臓病は、1度悪くなると治ることは無い不可逆な病気だそうです。

腎生検の結果、私の中にある腎臓を攻撃してしまう抗体が攻撃をし続け、腎臓の中の尿をろ過する糸球体がぎゅっと縮まって機能しなくなってしまい、尿が出なくなっていることが判明しました。(自己免疫疾患)そのため、老廃物を外に出すことが出来なくなるため、浮腫が起きてしまっていました。

病気を治すためには、腎移植をするしか方法が無いと言われました。私の中にある抗体が居続ける限り、移植を行った腎臓をまた攻撃しては意味が無いため、抗体が血液検査で陰性になり、そこから半年間様子を見て、問題が無かったら、母からの腎臓を貰う移植手術への準備を進めるという方針で決まりました。

そのため、抗体が陰性になるまで、私は薬を毎日飲みながら、週に3回×4時間の透析治療が必要となりました。そのため、シャントを左腕に造設しました。

透析:機械を通して身体中の血液から老廃物を取り除く、血液を綺麗にして体内に戻す治療のこと。
シャント:静脈と動脈を繋ぎ合わせた流れの強い血管のこと。シャントの腕で、重たいものを持ったり、血圧を測る事は禁止されている。

2.退院後の生活

タンパク質だったりカリウムが制限された入院食は、ほぼ魚だったり味のないおかずばっかりだったし、1ヶ月間缶詰状態だったので、退院出来てとても嬉しかったのを覚えています。しかし、やはり味の濃いものは喉が乾くからダメだったり、そもそも1日に摂っていい水分量が1000mlという制限があったので、辛かったです。1000ml以上摂ってしまうと、尿が全く出ないので、身体が浮腫んで重い感じがあったり、呼吸が苦しく感じました。(心臓に負担がかかっていた)

透析に向かう日の朝は、シャントにかなり太めの針を刺すため、30分前に腕に麻酔のクリームを塗って病院に向かっていました。(本当にそのクリームが無いと激痛で泣きそうになります…)透析室は若い人はほぼ居なかったため気まずくて、透析室が開くまで、尿は出ないのに、トイレに篭って過ごしていました笑

透析が始まってからは、4時間ベッドに寝たまま左腕が動かせないので、右手でスマホを見たり、音楽を聴いたり、備え付けのテレビを見たりしていました。でも、日によっては血圧が高くなって具合悪かったり、目眩がすごかったりして大変でした。当時は、血圧が180/130あるのが当たり前でした。酷いときでは200とかになったこともあり、さすがに頭痛が酷かったです。

3.薬の副作用

私の闘病生活で辛かったのは、透析治療や食事制限はもちろんなのですが、薬の副作用がかなりキツかったです。

炎症を止めるステロイド薬と、血圧を下げる薬、胃潰瘍を起こさないようにする薬と、貧血予防の薬などを飲んでいたのですが、その中のプレドニンというステロイド薬が、飲んでいて辛かったです。

ステロイド薬といえば、知っている人もいるかもしれませんが、副作用のデパートと言われています。わたしが出た副作用は、

知覚過敏、口渇(喉の乾き)、高血圧(低くても150/110とか)、食欲亢進、頭痛、満月様顔貌(ムーンフェイス)、中心性肥満、ステロイド挫創(ニキビ)、多毛、皮膚色素沈着、皮膚瘙痒感、精神状態が不安定で眠れなくなる

などがありました。私は、その中の副作用でも特に見た目に変化が起こる、ステロイド挫創(ニキビ)と満月様顔貌(ムーンフェイス)と中心性肥満が嫌でした。

やはり、20歳になったばかりだったので、友達と遊びに行ったりしたいし、出かけたら写真も撮ったりしたいので、見た目の変化が本当に嫌でした。化粧をしてマスクをしていても、病気の顔、という感じが否めなく、誰とも会いたくないので家族としか出掛けませんでした。いくら看護師さんから、薬飲まなくなったら治るよ~!と言われていても、今すぐに治したいのに、、とずっと思っていました。SNSで自撮りを上げている友達だったり、充実している投稿を見ると、やはり自分との生活のギャップに病んでしまい、みんなにはこの気持ちが分かるわけない、、と泣きたくなる日が多かったです。

4.病気回復の兆し

1月頃に、ずっと使っていたシャントがぼっこりコブになってしまい、このままだと破裂してしまうかもしれない、と言われ、シャントを作り直す手術を行いました。シャントを作る手術は、初めて作った時もあるので、2回目でした。腕に局所麻酔をして行うため、手術中、音が聞こえるのが地獄でした。さらに、痛くなったら自己申告で局所麻酔を足してもらうのですが、もう足して貰っても痛みが無くならなくなってしまい、後半は痛いままで、終始半べそでした。全身麻酔がいいのですが、それだと体に負担がかかるんでしょうね…

そんなこんなで2月、病気が判明してから1年頃、いつも透析している病院で、『そろそろ抗体が陰性になって半年経つから大学病院に行ってみましょうか。』と言われました。ついに…!と思う反面、え、早くない…!?という相反する気持ちもあって、複雑でした。

2月中旬に、母と大学病院へ向かい、腎移植の説明を受けたあと、採血(20本くらい取られた…)、肺機能検査やマンモグラフィー検査などを行いました。その後、私は4月の初めに、母は4月末に入院検査を行い、2人とも移植を行うのに問題は無い!という結果となりました。

そして、5月末に腎臓の移植手術をできる、というコーディネーターさんからのお話を受け、手術することに決めました。

2022年に入ってから、あっという間に話が進んでいき、本当に透析生活が終わるんだったら嬉しすぎる…という気持ちでした。しかし、その反面、というかそれ以上に、不安の気持ちでいっぱいでした。いくら母と話し合って移植を決めたとはいえ、手術後の生活(主に私より母の)の心配ばかりでした。もし、私に腎臓をひとつあげたことで体調が悪くなってしまったらどうしよう…だったり、本当に上手くいくのだろうか…と考えていました。

5.移植手術

私は、手術の1週間前から、母から貰った腎臓へ拒絶反応を起こさぬよう、免疫抑制剤を飲み始めました。その名の通り、免疫を抑制するので様々な感染を起こさないよう、入院の部屋は個室でした。(正直すごい快適だった…笑)

手術の日は、母が8時半頃に手術室に向かい、先に腎臓を摘出。私は10時頃に手術室に向かいました。

手術前は病気が治ることへの期待もありましたが、不安、緊張など様々な感情が入り交じって、心臓がバクバクでどうにかなりそうでした。

手術は、全身麻酔で行われるので、手術中の事はもちろん全く覚えていないのですが、麻酔のマスクを付けた瞬間に意識がふわーっと抜けていって、『これは逆らえない…!!』っていう感覚と、麻酔が抜けて目が覚めたときに『え、麻酔切れたけど手術終わったのかな、大丈夫!?』っていう感情になったことだけは鮮明に覚えています…笑

手術が終わったのは、17時頃だったと思うのですが、術後すぐの記憶はあまり無く、全身麻酔の影響なのか身体がだるくて重い感じがあり、夜までずっと寝ていました。しかし、私と母の手術中の付き添いである祖母が、顔を出して声を掛けてくれたのと、隣のICU室にいる母とテレビ電話で少し会話が出来たのが、嬉しかったです。

6.ICUが辛かった話

術後、私は2泊3日、母は1泊2日ICU(集中治療室)に居ました。しかし、ICUにいるのが、記憶の中では最も辛かったです。二度と入りたくありません…。というのも、

・部屋は暗くなっていても部屋の外は明るく、点滴を見に来る看護師さんや、機械の音だったりがずっとすること。
・身体を動かすことも出来ないので全身バキバキになっていたり、血栓ができないように足に着圧ソックス+マッサージ機みたいなのを一日中つけられていたこと。
・尿カテーテル、鼻に酸素のチューブ、指に酸素濃度を測る機械(SpO2)、身体に心電図を付けていたり、点滴を計3箇所刺していたこと。
・出るご飯を見ただけで気持ち悪くなってしまい、得体の知れない黒い液体を吐いたりもしたこと。

これらのストレスから、眠剤を点滴に入れてもらっても全く眠ることが出来ず、頭も身体も休まらず本当に辛かったです。

7.退院までの生活

ICUから病棟のベッドに戻ることが出来たときの開放感は、すごかったです。

しかし、開放感は最初だけで、移植後の生活はこんなに辛いのかと、苦しむことが多かったです。


まず、尿カテーテルが入っている部分が痛くてたまりませんでした。結構太い管が、手術後から5日間ほど入っていたのですが、尿が出る度に痛くて、痛みが我慢できないときは、ベッドから立ち上がり、しゃがんで踏ん張るなどして耐えてました。そのため、寝るのもしんどく、痛み止めと眠剤を毎日貰っていました。

やっと尿カテーテルが抜けて、自分でトイレに歩いて行ける!と思ったら、体力が無く、歩くのが大変なのもあったのですが、頻繁に行かなきゃならないのが本当にしんどかったです。

透析をし始めてから移植を行うまで、1日10mlほど?(ほぼ出ない)しか尿が出なくなってしまっていました。そのため、この1年弱、膀胱を使う機会が無かったので、萎縮していたそうです。尿が出るようになったことは、自分にとって本当に嬉しかったのですが、尿を膀胱に貯めることができず、15分おきなどにトイレに行かなきゃならなかったのが、本当に辛かったです。

透析をしている間は、1日1000mlといった水分制限があったため、極力水分を取らないように、味の濃いものを食べないように、と気をつけていました。しかし、尿をたくさん出し、膀胱を広げるため1日2000mlの水分を強制させられたのも大変でした。

点滴を抜いてから、最初の方は、正直2000ml飲むのが辛く、1000mlちょっとで諦めていました。すると、移植したばかりの腎臓が頑張ってくれていたのか、水分を取っていないのに尿がたくさん出ていたので、体重が透析していた頃より8キロほど減ってしまいました。また、脱水症状にもなり、めまいと頭痛が酷く、ご飯も食べられなくなってしまいました。看護師さんには、少し怒られ、自分が悪いのは分かっているのですが、心が折れそうになり、このままパタッと死んでしまうのではないかと、何度も考え、泣いてしまうことが多かったです。

また、尿カテーテルが入っていた部分が擦れてかぶれを起こしてしまい、かゆみが治まらず大変でした。そして、尿が出そうになったときに踏ん張っていたため、痔ができてしまいました。(汚い話すみません…)痔から出る血が2.3週間ほど止まらなかったので、踏ん張るのが怖くなり、便もなかなか出すことができませんでした。

また、血をサラサラにする薬を飲んでいたため、手術をした場所に血腫が出来てしまい、激痛が続いていたりもしました。

退院するまで、約1ヶ月間本当にたくさんのことがありました。毎日のようにナースコールを使い、自分も頑張ったけど、看護師さんに支えられたな、、と今でも思います。

8.退院してから

手術をしてから、1ヶ月後(6月末に)退院が決まったことは本当に嬉しかったのですが、体力が本当に無く、少し歩いただけで息切れと、頭痛・目眩が起こっていて、これから普通に生活できるようになるのかとても心配でした。また、午前中はお腹が痛くて動けず、便意があるのにトイレへ向かって踏ん張っても出すことが出来ず、腹部膨満感がある。しかし、午後になると腹痛が無くなる、と言った調べた感じ、過敏性腸症候群のようなものが退院してからずっと続いていました。

しかし、その心配も先生に相談し、色々な腸の動きを整える薬を出してもらったりしたところ、1ヶ月ほどで良くなり、だんだん体力も付いて自分の行動の幅が広がりました。


今では、朝8時(免疫抑制剤2種類、ステロイド薬、血圧を下げる薬2種類、ウイルスを撃退する薬2種類、整腸剤)と夜20時(免疫抑制剤2種類、整腸剤、胃潰瘍を予防する薬)を飲んでいます。量が多いし、時間が決まっているので大変ですが、透析をする生活に比べれば、自由度が圧倒的に高いので、自分のため!と思って我慢しています。

また、今では2.3週間に1回だけ病院で採血、尿検査を行って、体調の変化なども診てもらっています。

今少し辛いのは、移植後6ヶ月を過ぎるまで、生物(なまもの)を食べてはいけないことです。主に、生卵とお寿司は禁止らしいです。お寿司はかなり大好物なので、本当に今辛いです、、。母や妹が食べてるのを横目にお寿司屋さんで、麺類や唐揚げ、天ぷらを食べています…笑 おそらく11月にある腎生検で、問題が無ければ、食べれるようになるのだと思います、早く食べたい。そして、薬との相性が悪いので、グレープフルーツも食べてはいけないらしいです。これは一生。まあ、柑橘類全てがダメという訳ではないので、これは我慢します…。

しかし、移植してからやはり、病気前のように無理することは出来ません。1日動きすぎると、吐き気がし、動けなくなってしまいます。この間、自転車であちこち移動してから帰ってきたところ、突然の冷や汗と腹痛に襲われ、吐いてしまうことがありました。自分の体を大切に、慎重に行動することを心掛けないといけませんね、、。

9.移植して良かったこと

移植して良かったことは、もちろんたくさんあります。

まず、母も私も健康体なことです。移植してから、母の体調がどうなるのかすごく心配していたのですが、問題無く生活出来ていて、とても安心しました。しかし、やはり前みたいに一日中活発に、とは行かないようです。掃除機をかけるなど、家事をしているときによく、身体がバキバキになる…と言っています。協力して生活することが大事ですね。

それから、薬の副作用がほとんど無くなったことです。移植後に薬の説明を受けたときに、プレドニンというステロイド薬を飲み続けることを知って、私の副作用などは一生付き合っていかなければならないのでは、と1度絶望しました。しかし、移植してから、全く効かなかったニキビの薬が効き始め、徐々にですが、肌が綺麗になりました。尿が出るようになって、移植前より8キロ痩せたので、顔も身体もスッキリし、病気の顔ではなく、普通の人っていう感じがして、鏡を見るのも、写真を撮るのも、億劫じゃなくなりました。

また、やはり透析生活が無くなったことが一番嬉しいです。先程も書いたように、2.3週間に1度、通院したり、毎日薬をたくさん飲まなければなりませんが、週3回×4時間透析をしていたあの生活に比べれば、圧倒的に楽です。しかも、透析をしていた頃は、身体が常にだるくて重い感じ(老廃物が取り除かれていないから?)があったのですが、今は全くなく、体重が軽くなったから、という理由だけではなく、不思議と身体が軽く感じます。

10.最後に

いつか病気の症状や、移植についての話を書こうと思ってはいたのですが、なかなか文章を書くのが進まず溜めていたので、書くことが出来て良かったです。長くはなりましたが、読んでくれた方、ありがとうございました。

私は、病気になった当初だったり、なっている時、なんで自分だけこんな目に合わなきゃ行けないんだ、と思い悩んだり、落ち込む日が多くありました。でも、病気になって、学校や、やらなければ行けないことに追われることの無い日々が続き、自分を見つめ直す機会が多くありました。その時間を通して、自分自身がどうありたいのか、これからどのように過ごしていきたいのか、考えたことも無かったようなことをたくさん考えられたような気がします。病気にならなかったら、若いだけが取り柄で、中身はすっからかんのただの20代を過ごすことになっていたと思います。他の人とは違う映えない20.21歳を過ごしましたが、自分はこれでよかったと思います。

最後にカッコつけて綺麗にまとめようとしてしまったけど、病気になって後悔していないことは本当です。

しかし、健康体が一番です!定期的な健康診断だったり、食生活に気をつけることと、何か体に違和感を感じたら面倒でも病院に行くことが大切だと思います!

みなさんが、心も身体も健康でありますように。