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雨天物語(離為火)

キッチンが燃えた。雨が降って、冷えた春の夜、仕事から帰ってきた頃には壁紙がすっかりただれていて、床に座り込み焼けた指の皮をむしり取っている女がいた。

こちらが心配をする前に「なに食べる?」と聞いてきた。簡単なもので、と言うと冷蔵庫からマヨネーズとデパ地下のサラダを出してまた床に座り込む。この女とは同じデザインの専門学校を出た後、一緒に住んでいる仲だった。

「私さ、また上司に辞めるって言えなくてさ」
「そんなのいつものことじゃん」

フォークに突き刺したサラダの葉の音が、この部屋を支配してきた。二人で見つけたお気に入りの壁紙を貼って楽しんでいた日々が、今日少しだけ無くなりかけていた。学校を出たあと、私だけが就職をしてこの家に帰ってくるサイクルになった。

キッチンを燃やしてしまった女は、努力不足というか野心がないというか、なかなか面接にも行かずに料理を作ることに夢中になっているようだった。そんな彼女が作った料理を私が食べ、会社であった出来事を伝えて、社会を共有していく。

「デザインとかさ、何が正解かとかまだ分からないよ。ここをいい感じにしてって、社長は言うんだけど、私がやりたいように出来ないのってもどかしいんだよね」
「いや、会社とか仕事ってそんなもんでしょ。学校で出される好き勝手にやっていい課題じゃないんだからさ」
「そうだけどさ」

テーブルに置かれたハーブソルトを、残り少なくなったサラダにかけて口に運ぶ。

いつからだろう、こんなに暗い食卓になっていったのは。なにが原因だろう。

私も就職が決まった時には、ガッツポーズなんかしてしまってスーパーで一番高いシャンパンを買い、彼女と飲んだのに。どんな理不尽なことでも好きなことをやれるなら我慢すると、誓ったつもりだった。社会と対峙した時に、自分の考えを抑えつけられた感覚が抜けなくなっていった。

話し合う、ということが苦手だ。逃げる方が楽だと思う。でも逃げることも勇気がいるから面倒だ。毎朝、仕事を辞めようと思って出社するのに、いざ上司の顔を見ると「がんばります」という簡単な返事をしてしまうのだった。

「あんたさ、何かしたいことないの?」

彼女は私に対して毎回こうやって漠然と聞いてくる。あんたこそしたいことないのかよ、と言いたいけど彼女は料理をしたいらしい。でもそんな彼女が輝く場所であるキッチンが燃えてなくなった。

「キッチンさ、お金貯めてなんとかしようよ」

私は正直ひとりで暮らす自信がない。仕事で成功していない状態を自分自身で受け止めることが怖かった。彼女に言うことで、問題も半分にした気持ちになるからだ。

「いや、わたし出て行くよ」
「なんで」
「あとで修繕にかかるお金振り込むからさ」
「どこ行くの。私を一人にするつもり?」
「昔のあんたに戻った方がいいよ」 


そんなこと今言われたら、惨めになるじゃないか。文句ばっかり言ってる自分に無理矢理顔を向けさせられて、涙が出てくる。

「指見てよ、こんなになっちゃった。包丁、当分持てないかもしれない」
「病院行こう」
「行かない。いま、私の方が不幸じゃないって気持ちになったでしょ」
「そんなことないよ」

やりたいことが出来なくなった彼女の言葉が、強く聞こえてくる。

彼女は財布とコートだけを持って、指をさすりながら玄関の方に歩いて行く。

止める声も聞かずに扉を閉め、郵便受けから口元だけ見える状態で声を出した。それは雨音に負けそうな大きさなのに、何故かクリアに聞こえた。

「この家、よく燃えるよね。あんただけずっと冷えてスベってるよ。本当にしたいこと、した方がいいんじゃないの?」

耳が敏感になった後、鼻がよく機能した。キッチンからは燃えた匂いが目立ち、私は一人になってしまった。目元が熱くなったのに、涙はもう出てこなくなった。本当にしたいこと、私にもある。でも、まだ口にできない。言葉にできたら、どんなにいいだろう。彼女みたいに言いたいことだけ放って逃げたい。

思いっきり次の執筆をたのしみます