ポンコツ

私はポンコツである。

と聞いて、あなたが頭の中に思い浮かべたポンコツ像の10倍のポンコツが、私のポンコツ度合いである。

さくらももこさんのエッセイに、授業参観の日に、数学の時間なのに社会のノートを出していて親に呆れられたというエピソードがあった。
賢明なる読者の皆様方は、そのエピソードをとんでもないドジだと捉えられるのではと思う。

しかし、私はこのエピソードに全力であるあると頷かざるを得ない。

ていうか、むしろ、私の方がドジだし、と謎の張合いをする。

それほど私はポンコツである。

私のポンコツは、小学生時代にまで遡る。

私は今も忘れ物が多いのだが、小学校時代の私は担任に「忘れ物大明神」と称されるほど忘れ物が多かった。

ある日、いつものように眠い目をこすりながら登校した私は、これまたいつものように、教室の後ろにあるロッカーにランドセルをしまおうとする。

しかし、ここでランドセルの不在に気づく。

それと同時に、汗だくの父が息を切らして教室に入ってくる。
「ランドセル、忘れとったぞ」と言いながら。オトンありがとう。

しかもこういうことは一度や二度ではない。
大体年3回ペースでランドセルを忘れていた。

その後も順調に中学では学生鞄を忘れ、高校では教科書が入ったリュックを忘れている。
もはや学校に何をしに来たのか分からない。

言うまでもなく、体操服や筆箱、宿題など、定番の忘れ物は一通りこなしている。ポンコツを舐めてもらっては困るのだ。

私のポンコツは忘れ物のみにとどまらない。

私は運動神経がとても悪い。

しかし、運動をサボっていた訳ではない。
私は何事にも手を抜けないたちなので、運動ももちろん全力で取り組んだ。

しかし、全く運動が出来ないのである。

バスケットボールをすればチョップでボールを受け止めようとして右手の薬指を骨折し、テニスをすれば天高く上げたサーブがおでこに激突する。自転車を運転すれば何故か生垣に突っ込む。

よく22年も無事に生きてこれたなと思わざるをえない。

自分でも、自分がポンコツであることはほとほと嫌になるばかりである。

しかし、ポンコツは直らない。

準備をすればポンコツを軽減することは出来るが、誰も予想できないようなミスをするからポンコツなのだ。対策できるポンコツはもはやポンコツではない。

なので、自分がポンコツだと思う人は、ポンコツをやめることをあきらめなくてはならない。

それに罪悪感を抱くポンコツ諸君もいらっしゃることだと思う。その気持ちは痛いほどわかる。

だが、ポンコツがポンコツをやめることは、間違いなく多大な無理が生じ、あらたなポンコツ事案を生む。

では、人の助けが必要なポンコツが、罪悪感なく人の輪の中で生活するにはどうするのがよいか。

その方法のひとつに、ポンコツを「バリバラ的な笑い」に昇華するということがある。

NHKの「バリバラ」という番組をご存知だろうか。

障害を持った人々が、自身の障害について、安易な感動路線に走るのではなく、むしろ健常者が感動出来ないような、障害の「リアル」を赤裸々に語ったり、ネタにしたりする番組である。

その番組の中で、障害を持った人々は、自らの障害を感動の材料にされることも、触れてはいけない人として一歩引かれたりすることもない。

もちろん障害があることによって悪い意味で「笑われる」こともなく、むしろ自らの障害を用いて「笑わせて」いた。

障害がある人が全て「バリバラ」的であるべきだという訳では無いが、彼ら彼女らのコミュニケーションのやり方は、私にはとてもスマートに見えた。

実際のところ、障害がある人達がコミュニケーションにおいて阻まれている壁とは、「どう扱ったらいいか分からない」という思いだと思う。

ポンコツであることで、周りの人の助けが必要だからといって、卑屈になる必要は全くない。

むしろそれを自ら笑いに変えることが出来れば、笑いの文脈の中で、周囲と対等に付き合うことができる。

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