方針変更〜葬送ノウハウの前に、自分の感情の整理をしよう〜

自分と似たような局面に立つ誰かの役立てばと、少しでも体験を共有したいと考えたのに、筆が進まない。
理由は簡単だ。まだうまく自分の感情整理ができていないのだ。煩わしい手続きを終え、ようやく純粋に故人を悼む段階に立ったばかりなのだ。まだ無理なのだ。

何十年も前に他界した母は、私の足場であり基礎だった。彼女を看取った時は、自分の足元の地面が根こそぎ崩壊したようだった。しかし、彼女に対して当時の自分にできたことは全部やり切ったため、諦めがついたような気もしていた。

対して父は柱であり、傘だった。数少ない、一方的に寄りかかれる柱で、風雨や灼熱の日差しから守ってくれる傘だった。そして良くも悪くも容赦ない感情のやりとりをした人だった。母亡き世界を共に生きた同志であった。

そんな父だったからこそ、彼を見送るときは家族みんなで枕元を囲んで、穏やかに見送りたかった。
ありがとうございました。お疲れ様でした。
そう伝えながら、手を握りながら、彼が息を引き取る瞬間を傍で見守るのが私の夢だった。彼に対して尽くせたはずの手を、尽くす機会を与えられなかったことが受け入れられないのだ。
だから、叶わなかった願いに縛られて、私は未だ父を悼み、完全に弔いきれていないのだろう。
理屈でどうにかなるものではない。これは仕方ない。

母を思うとき、長い年月のお陰で、悲しみや痛みより先に優しさや愛おしさが前に出る。
だからいつかきっと父を失った記憶も形を変えるだろう。今がその時ではないだけだ。少なくとも一年前と今も違う。ちゃんと変化している。

もしも今、同じように喪失の渦中にいる人がいたなら伝えたい。痛みは消えはしないけれど、重さや意味合いは変わる。少しずつ鋭さが削られ、いつか柔らかな記憶と感謝に変わる。そしてそれが、先々に待ち受けるどんな暗闇も照らしてくれる光に変わる。

無理に自分を変えなくていい。悲しみも憤りもやるせなさも、今すべて味わい尽くした方がいい。そんなに打ちひしがれるということは、自分が相手にそれだけ愛された証、あるいは相手を愛した証。どちらであっても幸せではないか。

今はただ、時間が経つのを待って欲しい。目の前にあるものをひとつひとつ片付けるだけでいい。向き合うだけでもいい。眺めるだけでもいい。

喪失と対峙したあなたのその姿は、いつかきっと誰かの光になる。

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