逝く人の願いと、遺った者の思い
父の三回忌を控え、先日繰り上げ法要のために遠征をした。今回は家族の同行も知り合いの参加もなく、全く一人だった。
母のときも祖父母のときも、一緒に悼む人がいた。
喪失体験は同一になりえないながら、失った悲しみは共有できる部分があった。それが痛みを和らげる効果があるから、遺族は親族で集まって儀式を行うのだ。
今回はそれが、ない。自分と同じように喪失を悲しんでくれる人はもういないのだと考えた時、悲しみとともに清々しさすら感じたのが、自分にとっては節目だった。
同じ(様に感じる)ものを共有する相手がいなければ、痛みも喪失も「個」の領域だ。自分がどんなタイミングで、どんな思いと手段で両親を想おうが、誰かにとやかく言われることもない。また他人のそれに干渉する気も起きない。
一人であるということは、自分の力で自分を支えている状況でもある。文字通りの自立だ。親が自分達に望んだ、最小で最大のこと。それを自分は叶えたのだと思えば、それでもう全部良い様な気になる。
どんなに理不尽に感じることでも、それをギフトとして受け取れば本当にギフトになる。
私は父の葬送で苦しい思いもしたが、これ以上ない学びの機会を与えられたと感じている。
どんな苦しみも、有り難く受け取ってかけがえのないものに変換できる自分になれる。悼む行為は私にとって、そんな儀式だったのかもしれない。
…とはいえ、やっぱりにぎにぎしく、惜しみながら悼んであげたかったなぁ。
でもこれはきっと、父自身が感じた痛みに近い。
自分の追いかけたかった背中に近づいていると信じて、私は自分のあゆみを進めていきたい。
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