カーストという竜

 たまに見かける「構造的」という言葉。「構造的な不況」「構造的な貧困」「構造的な差別」など、なんとなくわかるけど突っ込んで考えていくと結構ややこしい。たとえば「構造的な不況」は「社会や経済の、形や仕組みまたはルールが原因となって起きている不況」というくらいの意味だ。だけど、詳しく説明してみろと言われると、複雑で長い過程があったり、元となる原因が多すぎたり「これが犯人だ!」とシンプルに説明できない場合が多い。

例を出してみよう。「日本の少子化問題」。これはとても複雑な問題だ。社会の変化、産業の変化、育児を取り巻く環境、経済状況、資本主義と自己決定、外国との相対的な豊かさの変化、外交政策の歴史、ジェンダー、法制度、文化、歴史などなど、とても多くの原因と結果がお互いに関係しあっている。この複雑で不特定な関係をひとつにまとめて構造やシステムと呼ぶ。

木城ゆきとの『銃夢 Last Order』の中でこうした社会の構造やシステムのことを”竜”と呼ぶ場面があった。こうした”竜”の中には、巨大すぎたり当たり前すぎて見ることができないものがある。正確には見えてはいるけれど見えていることに気づかないし、気がついてもすぐに忘れてしまう。姿が見えない”竜”ほど強力で、戦いを挑むことさえ難しい。

 『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』(イザベル・ウィルカーソン著、秋元由紀訳、岩波書店)はアメリカで人種差別が続く理由は、アメリカが「人種」によるカーストに基づいている社会だからだと結論付ける。個別の好き嫌いという単純なことが原因ではなく、カーストという構造的な問題が原因であると。

カーストとは非常に強い言葉だ。この言葉の元となったインドにおけるカーストは身分制度(カースト制)と訳される。バラモンを最上位として、最下層は触れることさえ忌み嫌われる不可触民(ダリット)が配置される。階層はいくつかあって、人は生まれながらにしてそのどこかに属するとされる。

そもそもそのグループ分けの根拠はない。しかし、みんながカーストを信じ、カーストを通じて連帯している。それが広がってゆくとどうなるだろうか。物理的には存在していないけれど、法人(会社)のように社会の中に実体として存在するようになる。そしてまるで生き物のように活動を始める。

カーストこそ構造なのである。カーストは序列である。(中略)カーストは生きている、呼吸をする実体である。まるでどんな犠牲を払ってでも自らを持続させようとする企業のようである。

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

それはユヴァル・ノア・ハラリのいう言語による認知の革命、私たちが虚構を信じ、虚構を共有し、虚構を通して連帯することで圧倒的に広い範囲で協力できるようになった能力に基づく。人間の岩盤的な能力であるがゆえに強力で、認識しようとしても当たり前すぎてわたしたちの意識からすり抜けてしまう。

 カーストの基本的な仕組みはとてもシンプルだ。政治的なものの本質が「敵と味方」の区別にあるように、カーストの本質は序列、上と下に分断することにある。上集団と下集団のグループに分けて、人びとをグループの中に格納し、優劣をつける。たったこれだけのことだ。

しかし、このシンプルなグループ分けを十人、百人、千人と信じる人が増えてくると、一定の水準を超えたあたりからみんながこの虚構を権威ある当然のものだと考えるようになる。そのときカーストが誕生する。するとその瞬間、逆にカーストが私達に説く、このグループ分けは変更不能で、先天的(アプリオリ)なもので、みんなもそう思っていると。こうしてシステムは自分の尻尾を追いかける獣のようにぐるぐると循環を始める。常識だから私が従う、そうしてわたしはみんなに参加する、みんなが従うから常識になる、常識だから私が従う……

これがカーストの持つ、自身が強化されていく循環のメカニズムだ。その結果としてグループ間の分断が維持され序列がキープされる。その活動を外から見ることができたなら、まるで自律した生き物のように見えるだろう。細胞の膜がナトリウムを外に押し出すように、このメカニズムは自らの存続と安定だけを目指して自律的に活動し続ける。

 この本では、著者はカーストという言葉を「人種」でのカーストに限定している。その狭い定義を使わせてもらおう。ただ、ひとつに絞ったとしてもその全体像を描写することは難しい。

たとえば本書では数多くのリンチの事例が描かれる。クリスマスカードを娘に送ったという理由で少年の手足を縛り川に突き落とし溺死させる大人たち。切断されて串刺しとなり燃えている頭部の写真を、絵葉書にして贈り合う住人たち。留置所を襲撃し、引きずり出して木に吊るして銃弾を撃ちこむ暴徒。そしてその雰囲気はどこまでも明るい。

凄惨な出来事だ。下手人はひどい奴らだ。なぜリンチしている人たちは明るくスカッとした気持ちで実行できたのだろうか。バーや家庭でエスカレートしてゆく”本音”の会話が野放しにされた、多くのケースで法で裁かれないことを知っていた、奴隷制の歴史など、色々な経緯はあるだろう。ただ、全てのケースでその地域の社会はリンチを許容していた。みんなは許されていたから気軽に吊るし上げをエンジョイしたのだ……こうやってカメラを引いて俯瞰してみると地域全体に責任が分散され、理由は平凡で月並みのものになり、当然すぎて批評を失ってしまう。

逆にカメラを近くに寄せてみよう。その警官は人種についての強い考えを持っていたためリンチを不問としました、彼が吊るされたのはこの時代にはよくあることでした、被害者がとんでもないやつだと噂話やデマでヒートアップして収まらなくなった人たちがいました。彼はこんな人でした。こんなことがきっかけでした……出来事はすぐに悲しいエピソードとして巻き取られ、今度は「構造的」の部分が悲しみの影にするりと隠れてしまう。

遠景では平凡な決り文句、近景ではディテールに目を奪われてしまう。そんな当然のことをくどくど書いたのにはひとつ理由がある。読んでいる少しの間に、これらが不幸な出来事などではなく、まぎれもない殺人事件だということを”うっかり”忘れてしまわなかっただろうか? これらが遠い昔の出来事ではなく20世紀の出来事で、現在もちょっとしたことで警官が黒人を射殺していることを”つい”忘れてしまった人がいても驚かない。

それは風のようで、人が倒れるほど強く吹くのに吹いているところを見ることはできない。(中略)その根拠となる行動規範は(中略)コマーシャル、テレビ番組、(中略)そして映画が始まって三十分以内に誰が最初に殺されるかによって、増強されている。これが人の盲点をつくカーストの凡庸さなのである。

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

凡庸だから、当たり前だから、盲点となる。カーストの出来事は二度、三度と繰り返すうちに、むしろいちいち反応するのが恥ずかしいとさえ思うようになる。最初は引っかかり気になった部分も、何度も続くうちに肩をすくめて流してしまう。背景にあるカーストはますます意識しにくくなり、自然なことにされていく。

 虚構はそれを当然だと思っている人たちによって絶えず強化されている。当然だと、自然なことだと、当たり前の常識だと思っているものは盲点となってしまう。辞書をイメージして欲しい。よく使う普通の言葉が、最も説明が難しい。著者はカーストを説明するために8つのポイントを挙げるが、どれも互いに循環している構造になっていてすっきり整理できるものではない。(例えば「神の意思」というトピックと「優越/劣等」というトピックはどこが開始点だろうか?)

また、カーストと階級(クラス)という言葉を注意深く使い分けているが、このふたつがほとんど一致してしまう場面が多く出てくる。「職業のヒエラルキー」「族内婚」というトピックの場合、前者は職業選択を制限することで、後者は別のカーストとの結婚を異端として糾弾することで、カーストを安定させる効果を生んでいる。この時カーストと階級はほぼ同じ意味となり、カーストは背景に溶け込む。呼び名を変えて様々な場所に登場することも構造的な問題の特徴のひとつだ。厳密に見ていけば「差別」と「カースト」でさえ、重なる部分は多いけれど本来は別のものだろう。

 このタイプの本を手に取る読者は多かれ少なかれ「解決策」を求めているだろうが、これまで見てきたようにカーストの問題は構造的な問題であるため、その原因や対策をはっきりと名指しすることはできない。その点について、著者は冷静に回答する。たったひとつの冴えた解法は存在しない。万能の銀の銃弾は存在しないと。

実際には、カーストの装置を動かし続けているのは普通の人の行動か、こちらのほうがよくあるのだが、かれらが行動しないことである。いちばん最近の警官による殺害に肩をすくめる人たち、夕食の席で周辺化された人が遠回しに侮辱されるのを聞いても笑ってすませ、その発言をした、それ以外の点では愛しいおじに敬遠されるのを恐れて何も言わない人たち(中略)こうした人のそれぞれが、その内側にいる全員を支配するシステム全体を保持しているのである。

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

「一つの法律」や「一人の人」「一度の選挙」で一夜にして変わるような革命的変化はいつまでも起きないだろう。原因が広い範囲で常に発生しているのならば、その対処も広い範囲で常に打ち消していくしかない。カーストを強化する出来事をその都度阻害し、再発生を防ぐということが対策の原理になる。こうした”竜”を意思の力で解体するには、不断の努力が求められる。その中でも最も必要なのは、水の入ったコップが倒れた時に、素早く濡らしたくないものを助け出すような、精神的な瞬発力というべきものだ。

 本書は1冊の本にすぎない。この本1冊で何かが変わることはない。ただし、それが何千万人と理解するようになれば変化というものが起こり得る。そうした形でしかカーストの問題は解決できないと証明したのだ。

(了)

 と、ここからは余談になるのだけれど、カーストの概念は、アメリカにおける人種のカーストに限定されるものではない。同書のテーマに対して人種差別のインパクトが矮小化されてしまうので、一番例としては適切ではないけれど、スクールカーストというように学校での序列も原理的には同じだ。数百人の規模があればカーストは起こり得る。逆にもっと広く取り、「男女」というジェンダーの問題でも成り立つ。2以上のグループに分けて、その中に所属させて、グループ間の序列を作ることがその根幹だという部分は変わらない。著者は後天的に変更不能なものをその前提としているが、序列を維持させるシステムという面から捉えるなら「階級(クラス)」も十分にカーストたりえる。

 むしろ、先天的なもので変更不能なものほど”強い”カーストで、努力や失敗によって参入や退出する機会が多いほど”弱い”カーストと一般化して定義してみてはどうだろうか。そうすると様々な問題解決の糸口が見えてくる。循環強化され分断が維持されるポイントを阻害しカーストを解体するようなアプローチも可能だろう。(ただし、その調子で解体していった先に資本主義だけが残ったというマーク・フィッシャー的な結末もありうる)

 また別の角度から考えてみよう。アメリカの小説を読んでいるとたまに「私たちはどこに出しても恥ずかしくない立派な人間だ」という自負する場面に出会う。こうした社会の中で自身の位(くらい)を位置づける感覚は世界中どこにでもある。今はうまくいっていないけれど恥じるようなことはしていない……そうした位置づけの位相がカーストであると言うこともできる。「年齢(老/若)」「性別」「人種」「収入」「職業」「容姿」「宗教」「学歴」「性的魅力」「体力」「職業」「社会貢献」「賞罰」「自活能力」「知名度」……”強い”ものも”弱い”ものも合わせて、私たちはこうした様々な位相をなんとなく眺め、(人によっては自分の都合のいい部分だけを見て)自分は社会のだいたいこの辺だろうと見当をつけている。

 アイデンティティの文脈からみると、カーストは複数あるのが当然となる。(そういえば最近だと、オタク/一般人という序列を唱える人もいる)注意しなければならないのは、こうしたことは「わたし-あなた」の1対1の関係では、あまり問題にならなかったり、慣れてしまえば気にならなくなる。問題になるのは常に集団の中、複数の人間がいる場面である。集団の中では「あなたはあなたよ、人種も性別も年齢も関係ないわ」という言葉が意味を失う。「あなたはアジア系で40代の男性」となることを避けることは不可能だ。たとえVRの世界となっても別の位相が持ち出されるだけで本質的には変わりない。

 つまり、アイデンティティの文脈ではカーストを取り除くことはできない。カーストという竜を解体し尽くすことは不可能なのだ。でも、社会問題の文脈ではそれを無毒なものにすることはできる。序列を消滅させることはできないが、通し番号くらいまで後退させることは可能なのではないだろうか。タイトルを回収すると、カーストという竜を倒すことはできないけれど、荒ぶる竜を静めることはできる。遠い昔の、神話の時代の竜のように。

 著者はアフリカ系の女性で元新聞記者、今はジャーナリストで作家という肩書だ。なので本書は(長いけど)難しい言葉も使われていないし、文章も平易で読みやすい。最後にいくつか強く印象に残った部分を紹介したい。

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「コーカソイド」という語を使うのは(中略)一七九五年に、ドイツの医学者、ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハの思いつきから生まれた。ブルーメンバッハは色々な人間を分類しようとし、人間の頭蓋骨――額、顎骨、眼窩――を測定して研究するのに何十年も費やした。
 ブルーメンバッハはロシアのコーカサス山脈から手に入れたお気に入りの頭蓋骨に基づいて「コーカソイド」という語を新しく造った。かれにとってその頭蓋骨は自分の持っている頭蓋骨のなかでいちばん美しかった。それでブルーメンバッハはその頭蓋骨を生んだ地域の名前を、自分の属する集団であるヨーロッパ人に付けた。今では白人と認識される人びとが、科学的に聞こえるが実は根拠のないコーカソイドという名で呼ばれるようになったのはこういうわけである。

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

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リンチはお祭り騒ぎである、拷問部屋でもあり、何千人もの見物人を集め、その人たちは集団として公の場でサディズムの共犯者となった。写真家は事前に情報を知らされ、リンチ場所に持ち運びできる印刷機を設置して、プロムでするのと同じようにリンチ執行者や見物人に写真を売った。(中略)人びとは(中略)切断され燃えかけた頭が支柱に刺さっている写真の絵葉書を送った。焼け焦げた胴体の絵葉書も送った。(中略)「ナチスでさえも、アウシュヴィッツのみやげを売るほど成り下がりはしなかった」

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

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一九六〇年代、黒人の公民権運動家が公営プールを人種統合(白人用施設を黒人が使用し、人種隔離を事実上終わらせること)するために一往復泳ぎ、水から上がってタオルで体を拭いた。「白人たちはプールの水を全部抜くことで応じた」と法制史学者のマーク・S・ウィーナーは書いた。「それから水を入れ直した」

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

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アフリカ系アメリカ人が日没後に白人の町や地区にいることを禁じる日没法が米国各地にあり、違反すれば襲われたり、リンチされたりする恐れがあった。北部のバーやレストランでは、アフリカ系アメリカ人が入店して飲食することは認められていたものの、バーテンダーが黒人の客が口をつけたばかりのグラスをわざとらしく割るのはよくあることだった。他の客たちは、割れる音がしたのはどこか、カースト汚染という一線を越えたのは誰かと顔を上げるのである。

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

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 中流階級で育ち、一般に従属カーストに生まれ、そのなかでもアフリカ系アメリカ人である場合、その人は自分の背負う重荷をよく心得ていて、当然、人の二倍は努力しなければならないこともわかっている。しかしそれよりも重要なこととして、一歩も踏み間違える余地はないので、単にその場にとどまるためにも事実上完璧であろうとしなければならないことをわかっている。いやでもこの二重基準と共存しなければならない。白人の友人たちが切り抜けるかもしれないこと――思春期のいたずらや、挑戦を受けて万引きをする、教師に対してきたない言葉を使うといったことでも、自分はけっして見逃されないことを学びながら育つ。

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』

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「わたしたちは黒人税を支払っていて、それによって健康を害されている(中略)
友人に中産階級のビジネスマンがいたが、その人はスウェットやスニーカーという格好ではけっして出かけない。(中略)友人にはそんな危険を冒す余裕がなかった。家を出るたびに非常に気を遣い、どんな些細な用事のためにも時間と事前の考慮が必要だった。
 「友人の妻が牛乳がいると言い、それをスーパーに買いに行かなければならないとなれば、友人は急いで家に戻ってジャケットを着てネクタイをする」とウィリアムズは言った。「それは自分が若い黒人男性であるために犯罪者と思われる可能性を最小限にするための、かれなりのやり方だった。わたしたちはそんな状況で生活しているのであり、それはわたしたちの生活を損なっている」

『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』


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