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つぶらなお目目のきいろいアイツ

二〇一六年十二月二十三日金曜日

晴れ ぽっかぽか

お風呂でよめるときにそろりそろりと読みすすめている『ココアどこ わたしはゴマだれ』。高山さんとスイセイさんの会話は、食卓をずっと囲んでいるひとの会話というか、一線を越えているひとたちの会話だなと読んでいて思う。わたしがぼんやりそれってどういうことだろうとひっかかる文章の次の行をみると、するりと別の言葉に当てはめて言い換え、「そうそう」と話はすすんでいったりする。お風呂のなかではあたまがぽやぽやでもあるからさささっと読んでいってしまうのだけれど、ぐんぐんいく会話についてゆけてないところもしばしばある。吉本隆明さんと糸井重里さんの『悪人正機』を読んだときに思ったことを、読みながら思っている。(わからないは、わからないにちゃんとしておこう)と。

−言葉って二種類あるのかも分からん。一つは説明、もう一つは描写。−

(P174)という文章がある。スイセイさんの言葉だ。このあとにつづく高山さんの言葉も載せさせていただく。

−説明の方が、さっきからずっと言っている言葉の世界。で、描写の方が、言葉のない世界に近いんだと思う。−

これは、高山さんの言葉。

日記を書いていても、こころがうごいてつかまえるみたく言葉にすることはとってもたのしい。追いつけなくなりそうで必死で手繰り寄せたりして、それがとってもたのしく、そう書けたときのきもちよさというのがある。一方で、そこに至るまでのことなどわかるようにと説明しはじめてつまらなくなって消してしまうということはよくある。国語のテストでも説明文になると急に点数が低かったことを覚えている。そのころ、説明文と感想文の違いをわかっていなかったわたしだったけれど、いまになってそうかとわかる。言葉のない世界にずっと片足つっこみつづけながら、言葉にあこがれている。あれとこれだって見方によっちゃいっしょだしああでもないこうでもないと分けることがなかなかできないのに言葉にあこがれているからやっかいだ。なかなか漢字を選べないのもそのあたりが理由。

耳にしているのんさんのことばたちは、説明でも描写でもなく音。そこには意味を持つこともあるけれど、つかまえられないあいうえおの表にはない音たちなのだ。もうすこしながくこの音の言葉を聞いていたくなる。会話ができるようになるのはうれしいけれど、もうすこしもうすこしそのままで。

夜ごはんは、牛タン、鍋焼きうどん(椎茸、白菜、蕪、玉ねぎ、ごぼう、生姜)。

いとこ煮で余った南瓜の煮汁と小豆をつかってあんぱんをつくった。それはそれはおいしい。身体がつかれていたようで、寝かしつけのままいっしょに眠る。

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