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Z級の日々:人と関わるのが難しい

こちらは昨年はてなブログにあげた自分の記事を転載しています。


うつ病を患い「社会的」生物の「欠陥品」であることを痛感させられ、己の情けなさ、不甲斐なさを呪い、めそめそしているだけの惨めな自省録です。
 
だいぶ心の体力も戻ってきた10月ごろから、2週に1回のペースで地域の子どもサロンのボランティアに参加をしている。母親がスタッフとして参加しており、よくこんな子がきてあんなことをしたと話に聞いていた。基本的には未就学児と遊ぶだけなので、「これなら私にもできるのでは?」と付いていくようになった。純粋に小さな子どもと遊びたいというどう考えても不純な動機で参加したのだ。スタッフの皆さんも身近に私と似た状況の人がいるようで、優しく迎えてもらった。子どもたちとボールを投げたり、手押し車で歩き回ったり、運動不足の私にはちょうどいい運動で、母親も喜んだ。
 
が、次第に行くのが憂鬱になる。
たった2時間子どもと遊ぶだけなのに、当日の朝は体調が崩れ気味になることが増えていったのだ。だが、「何となく嫌」という理由で「サボる」のが後ろめたくて、しばらくは脳に鞭を打って行った。通院している精神科の先生からも、「そろそろ調子も良くなってきたから、毎日もしくは毎週予定を入れて、外に出るための心の体力を付けていきましょう」とプレッシャーを軽く掛けられたのもあった。もちろん正式なスタッフではないので、私が行かないところでサボりでもなんでもないのに気が引けるし、母親からも頑張って行こうと声をかけられ続けた。
同じようなボランティアで行っている家庭教師は毎週楽しみで仕方ないのに、この違いは何なんだろう。
 
そしてようやく憂鬱になる理由が今朝分かった。いろんなカテゴリーの人との関係、視線に一気に晒されたことが負担になったのだ。具体的に説明すると、
・ボランティアスタッフ。自分がスタッフとして参加する以上、円滑なコミュニケーションが最低でも必要になる。また親に付いていっているので、親の面子も気にしないといけない(と思ってしまう)。
・子どもとの距離。子どもというのは知らない人間を警戒する生き物なので、一緒に遊ぶレベルまで距離を詰めるのは思っていた以上に難しい。たったの2時間で上手く仲良くなる必要がある(と思ってしまう)。
・親御さんの目。母親が「○○ちゃんとばかり遊んでうちの子とは遊んでくれない」と僻むような人がいると、以前言っていたのが気になってそう見えないようにしないといけない(と思ってしまう)。また、『ゆりかごを揺らす手』のように「うちの子とばかり遊んで私から母親の座を奪おうとしているのでは?」と思われるのも怖く、上手く距離を保って満遍なく遊ばないといけない(と思ってしまう)。
 
という具合に予想もしていない心理的なハードルに衝突してしまい、しばらくボランティアに行くのをやめることにした。母親にも理由を白状して了承を得たのだが、「そんなに色んなことを考えずに子どもたちと遊ぶだけでいい、気にしすぎ」と言われた。それが出来たらこのように苦労していない。それにしても、社会人であれ学生であれ、色んな人の顔色を伺いながら、衝突しないよう上手く立ち回っている、社会を生きるの皆は本当にすごい。
というか今さら「そんなに相手の気持ちを考えすぎだ」と言われても、子どもの時から「あんたには思いやりの心がないのか、人の気持ちを考えなさい」と私を叱りつけてきたのはあなたたちでは?
しかしそんな嫌味を言ったところで解決もしないし、また母親を傷つけるだけなので不貞寝をするしかない。今日も惨めに不貞寝をしてやり過ごすだけだ。

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