うまれ

 家族ぐるみで付き合いをしている友達がもうすぐ出産する。
皆生まれてくるのを楽しみにしている中で、私はその大きなお腹に触ることができない。

 高校時代、仲が良い(と私は思っていた)友人にとなりのトトロを観たことがないという話をしたら、「だから人として何か欠けてるんやな」と言われた。
その後すぐトトロを観てみたらたしかにこれを幼少期観ていたら何か違ったかもしれないと思ったけど、今思えばトトロごときで私の人格が真っ直ぐになっていたとは思えない。
多分そんなことはその友人も分かって言っていて、彼女は私の人としてのまじやばさを半ば冷笑的に見ていたのだろうなと思う。
その友人からも先日出産報告が来たが、私はそれをやはり真っ直ぐには受け止めることはできなかった。
その私の気持ちも、彼女には折り込み済みである気がする。

 私は自分の子供を持ちたいと思ったことが全くなく、子供を産むこと自体間違ったことのようにすら思う。
自分の子供を愛せないであろうなという確信、ジェンダー的な社会の押し付けへの反発、単純に面倒だということなど、理由はいくらでも思いつくのだけどもどれも言い訳がましく、結局自分が人としての何か重要な部分がごっそり欠けてしまっているだけなんだと思う。
なんかよく分からんけど全然興味ない、というだけ。

なんかよく分からんけど全然興味ない、友達が出産することに関しても。
家族ぐるみでよく遊ぶし旅行も行く間柄で、そこに幼な子が入るのだと思うと面倒だなとしか思わないし、正直関わりたくないと思っている自分がいるのだけど、ここ数年は友達と会うことすら面倒で無意味だと感じていながらもなんとなく定期的に会っては疲れ果てて帰るという繰り返しなので、恐らくその延長でいやいや付き合い続けるんだと思う。

 なぜ人は家庭を作るのか、という疑問は三十路を過ぎて少し答えが見えてきた。
自分一人の人生を顧みないために人は結婚し、自分たちの子供を持つんだと思う。
結局私たちは生き物として必死に生きようとしなければおかしくなってしまう。必死に生きるためには必死に守る物が必要で、自分一人で食べて行くことに不自由なく生活をしていると人生を顧みて停滞ししまう。
余裕がありすぎるというのは、生き物として間違っているのかもしれない。

私は必死になるほど生き続けたくはなく、必死になるほど他人を愛することはできないし、結婚も出産も絶対にしたくない。する意味がない。なぜ面倒や責任を背負ってまで生きなければいけないのか。全然分からない。

どうして私のような人間が生まれてしまったのか、この自意識はなんのためにあるのか、そんなことを考えながらも髪を染めたり美味しいコーヒーを淹れたりして生活を良くしようとしている自分が気持ち悪くて仕方がない。
そういう感覚が、身近な他人の出産によってよりはっきりと浮き上がってきそうで、しかもその人情のなさを人に気づかれる可能性も出てくるわけで、なんかもうどうしようもないわな。

 トトロの話をしていた高校時代の友人には、私が子供を産んだら絶対ネグレクトになるし最悪殺しそうだと言われたこともあった。
その時自分でもそう思うと言ったけど、今はもっと具体的な確信としてそう感じてる。
そんな私に出産報告をしてきたあの子、一体どんな気持ちでLINEを送ってきて、私の差し障りない祝福の返信をどう受け取ったのか、ちょっと聞いてみたい。

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