「反共産主義」という落とし穴

20世紀前半の歴史を色々と顧みると、反共産主義という考え方がもたらした悲劇を発見することになります。

1 事の起こり

1917年にロシアで共産主義革命が起こりました。

それまでの帝政ロシアにおける人権状況は、ほとんど中世の農奴制の水準に留まっていましたし、共産主義革命後においても、様々な反対勢力を粛清するために、実態としては帝政期と同様の水準に留まり続けました。

そうした人権状況をもたらした元凶が共産主義にあったのか、スターリンにあったのか、簡単に決することはできないでしょうが、具体的に政策決定した一群の人びとの頂点にスターリンが立っていて采配を振るっていたことは厳然たる事実です。

2 第2次世界大戦まで

西欧諸国の指導者たちは、スターリンが革命を輸出するために、国内の社会主義者や共産主義者を使って社会を動揺させ、機をうかがって国境を越えてくることを確信していました。

その際に、西欧諸国は、最初の防衛線となることをナチス・ドイツに期待しました。
 実際、ローマ教皇ピウス12世はヒトラーが独裁者となるといち早く教会を保護する代わりにヒトラーを支持するという政教条約を締結しましたし、イギリスがヒトラーのポーランド侵攻を容認したのも、そうした期待の現れだったのです。

しかし、結果としては、西欧諸国のための番犬となるはずだったヒトラーは逆方向に銃口を向けて第2次世界大戦を引き起こし、ユダヤ人や精神障害者の大量虐殺という悲劇を起しました。

つまり、反共産主義を旗頭とした反スターリン政策が、ヒトラーの暴走を引き起こすこととなったのです。

3 戦後

連合国として、ともにヒトラーと闘った西欧諸国とソ連でしたが、戦争が終われば、世界唯一、かつ最大の共産主義国家としてのソ連は、以前と同じ、仮想敵国として見られることになりました。

その結果、米国とソ連との勢力争いが中東やベトナムなどの各地における代理戦争を引き起こすことになりました。

また、それまで世界で最も民主的で自由を尊重する国と思われていた米国では反共産主義が国是となって大規模な赤狩りが行われ、思想信条の自由が実質的に奪われることとなりました。

そして、ベルリンの壁が崩壊しソ連が解体した後にロシアに残ったのは、開発が立ち後れ、しかも冬期には港を失うという実質的な内陸国という厳しい経済環境と西欧諸国との経済格差だけ、という状況なのです(ウクライナ紛争はそうした長い歴史的な文脈に私たちの目を向けさせてくれました)。

4 問題の所在

マルクスの主張した共産主義が多くの誤りを抱えていたことは、21世紀の今日、すでに明らかになっているし、世界中の共産主義者や社会主義者も、かつての俗流マルクス主義を主張しようとは思っていないはずです。

むしろ、かつてのような暴力革命主義やスターリンや毛沢東による人権侵害を声高に述べ立てて、マルクスが提示した理想郷を一方的に否定する反共産主義の主張に、十分、注意すべきです。

実際、上に述べたように、反共産主義は結果として、多くの悲劇を産み落としてきたし、今日、労働組合の連合は反共産主義的代表に牽引されて、自民党に接近する右傾化路線を歩んでいます。

明日の選挙に際しては、ぜひその点を踏まえて、共産主義だからダメ、自由主義だから大丈夫、ということではなく、ご自分の頭でよくよく考えて、投票先を見当して欲しいと思います。

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