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8月9日、長崎のこと

私は長崎市出身だ。
2023年8月9日。今日は長崎原爆の日。

祖母から聞いた「あの日」のことを、数年おきにSNSに書いたり過去投稿のシェアをしたりしてきたんだけど、せっかくnoteがあるのでここに残しておこうと思う。

以下、私が過去にSNSに載せた文章を加筆訂正したものです。
20年以上前の伝聞なので間違いもあるかもしれないのでそのへんはご容赦ください。
「あの日(厳密には翌日)、普通の主婦、母親だった祖母が長崎で見て経験したこと」を、
「孫の私が聞いて、記憶したもの」です。

***
23年前に亡くなった父方の祖母。
78年前は何歳だったんだろう。
伯母が赤ちゃんで、祖母は20代前半だったのかな。

祖母は長崎市北部の時津町というところに疎開していた。
原爆投下の瞬間は、ピカッと光ったのだけが見えた。
長崎が大変なことになっていると聞き、夫(私の祖父)を迎えにいくことになった。

爆心地がどこか、当時情報はなかったかもしれないけど、祖父が働いていた場所は、爆心地から1〜2キロのところ。

赤ちゃんを背負って、リアカーを引いて、歩いて迎えに行った。
(いまGoogle地図で調べたら、8キロくらい)

祖父は爆風に吹き飛ばされて倒れていたらしい。
祖父をリアカーに乗せて時津に戻る。
火傷をした人たちから
「水をください」と頼まれて、水筒の水を分けた。
水は無くなってしまって、それでも頼まれる。
ごめんなさい、ごめんなさい、と謝った。

アメリカの飛行機が飛んでくるのが見えて、みんな橋の下などに隠れる。
リアカーを引いていて動きが遅いので、
みんなに迷惑をかけてはいけないと、途中で隠れるのをやめた。一家で死ぬかもしれないと思った。

無事に時津まで戻った。
祖父は一命をとりとめて、私が知っている祖父は孫を可愛がってくれる優しいおじいちゃんだった。私が幼稚園の頃に病気で亡くなった。

祖母も70代まで生きていて、私は原爆の日の話を祖母から直接話を聞いた。
高校2年生の時、祖母の家に遊びに行っていて、8月9日11時2分に一緒に黙祷をして、そのままゆっくり話してくれて、終わる頃にお昼になったからじっくり1時間。

その翌年の8月に祖母が亡くなった。だからこの話はもう聞けない。ぎりぎりだったんだ。
(長崎市の取り組みで書いたらしい、祖母の手記は残ってる)

関西で育つ息子たちは、学校に行き始めても8月9日が登校日ではないし、11時2分にお友達と黙祷をすることはないのかもしれない。

被爆4世である息子たちに、このことを話してあげられるのは私だけだから、ちゃんと話したいと思います。

長崎の原爆投下日時は
8月9日11時2分です。


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