庭のヤツデと『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』

思うところあってたまには家事でも手伝うかと実家の庭で育てられている草花にホースで水を与えていると気になる植物を発見した。

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太陽にむかって広げた手のような形の葉っぱはツヤツヤで、葉色は周りの雑草がくすんで見えるほど明るく、茎は太くてたくましい。この植物は何だろう? 庭で草花を育てている母に名前を訊ねると「ヤツデだよ」と返ってきた。ヤツデとは、日常を注意深く観察するとそこら中に生えているでおなじみの雑草らしい。葉っぱが八手に裂かれているからヤツデと名付けられているが、きちんと八つに裂けているものは滅多にないそうだ。実際、いま目の前にあるヤツデももれなく七つか九つに裂けている。それではヤツデといえないのだが、ヤツデという名前がついてしまっている以上、我々はそれをヤツデと呼ぶしかないのだ。なんてぞんざいな存在なのだ。そして、そんなご存知な植物すら知らずに生きているおれはもっとぞんざいではないかと恥ずかしくなった。母から詳しい話を聞くと、木の実を食べたどこかの鳥が空から放ったフンが鉢植えに落下、そのうち土に飲まれて種子が発芽してすくすく成長したのだとか。駆除する理由も特別ないので育てているそうだ。いつもなら「なるほど」とぞんざいに話を済ませてしまうところだけれど、鳥の排泄物から生まれたという背景を知った瞬間、おれのなかでこのヤツデが特別になってしまった。その特別さとはこんな感じだ。

“どこかの誰かの排泄物が、知らない誰かを魅了する。魅了された瞬間、排泄物は誰かにとっての啓示的な存在として生まれ変わるが、生み落とした当人は素知らぬ顔で日常を過ごしている。なんならとっくにくたばっていてこの世にいないかもしれない。”

この素知らぬ態度にシビれてしまった。それは他人の顔色ありきで行動するバンクシーとは真逆の生活態度だ。真のバンクシーがいるとしたら、無差別に電話口でファミコンメドレーを熱唱するイタ電を繰り返し逮捕されたのち、釈放されたばかりの足で電話ボックスへ向かうようなやつのことだ。まったく凝りていない。生活なのだから当然、と真剣な顔をしている。生活とはなんだ。そういうやつには、勝てない。ともかく、この日を境に単なる雑草だったヤツデはおれのなかでモノリスになり得る存在に変わってしまった。そして、このヤツデを生み落としたどこかの鳥に対しても敬意が生まれた。
以前、『車の裏の孫悟空』という漫画を描いたのだが、あれはこの理想的態度がベースになっている。ヤツデを知ったのは描いたあとなので順序が逆なのだが、そういうことばかり考えているとどこかで繋がってくるのだろう。ちなみに漫画はその理想がまったく伝わらない描き方になってしまった。
何か大きなヒントをつかめるような気がして、その日からヤツデの観察が日常になった。しばらくすると見ているだけではもの足りなくなり、絵の練習がてらスケッチの記録をつけはじめた。興奮していたのかその初日には日記もつけてしまった。

『庭で椅子に座りながらヤツデを描いた。画材は姉のタンスで眠っていたパステルクレヨンだ。椅子はドンキで買ってきた安いアウトドア用のやつ。先ほどまで雨が降っていたのに葉っぱの上の雨粒はぜんぶ弾き落とされている。意識を集中させて葉っぱの輪郭をゆっくりと目で追いかけながら黒のパステルで画用紙をなぞっていく。このとき線が発生している手元は見ずに、葉の外周のギザギザを追う目の動きと手を連動させるつもりで描く。今は手癖から離れたい気分だったのでそうした。目と手の動きが噛み合っていないのですぐに画用紙の崖っぷちまでまで線画が近づいてしまう。大きく描きすぎている。軌道修正したくなるが、そのままを意識する。目と手の動きをリンクさせる意識でその後の葉っぱも描いていく。崖から落ちたくないのか、今度は小さく描こうとしている自分がいる。頭で考える癖が抜け切れていない。ようやく線をなぞり終えてはじめて紙に目をやると、そこにはヤツデとは言いがたい、ぎこちない描線で囲った何かが写されていた。不細工な絵だが誰のタッチでもない素直さがあって不思議と好感がもてた。続いて緑色のパステルで輪郭の内側を塗る。緑色ではない色で塗りたくなったが、素直に緑にしてみる。この時なぜか「できるだけ元気であってほしい」という情がわいてきて濃いめの緑を選んでしまった。葉をふち取るように枯れはじめている部分を黄色で塗ると緑だけの平凡な画面にアクセントが生まれて楽しい。この瞬間、枯れた葉にも役割があるのだという謎の感動に襲われる。羽虫に耳元で騒がれたり、アリが足元をくすぐってくるけど、彼らを受け入れて場所に溶け込むような意識を保つ。それがこの空間に認めてもらうためのルールに思えたからだ。椅子に座りながらサンダルを脱いで裸足で地面の濡れた土を揉むと炭酸のようなチクチクした感触が足裏に伝わってくる。色を塗りながら、描いてる絵をときどきヤツデに向けてみる。とうぜん無風で微動だにしない。進捗をマメに報告するというおそらく一生できないであろう不得意な行為が自然相手だと素直にできてしまうことが驚きだった。絵を描き終えて玄関脇にある水道のホースで泥だらけの足を洗う。手についた汚れを石けんで洗い流そうとすると画用紙を擦っていた左腕がヤツデと同じ緑色に染まっていた。もの言わぬ彼らにすこしだけ認めてもらえた気がした。』

ある日の晩、ドミューンで映画監督のアレハンドロ・ホロドフスキーの特集を観ていた。ホドロフキーについては、2000年代に作品がDVD化されまくった時期に熱心になっていた記憶がある。番組の終盤、出演者がホドロフスキーに質問をするコーナーで、宇川直宏が「あなたにとってアートとは何か?」と質問した。それに対してホドロフスキーは「光る虫を飲み込んだカエルです」と答えた。誰もが頭上にハテナを浮かべるがホドロフスキーはこう続ける。「カエルは大きな口を持っています。カエルはいつも暗いところにいるので、月に憧れます。その大きな口で月を食べたいと思っています。しかし夢は叶いません。だからカエルはホタルのような光る虫を食べるのです。光を得るために食べるのです。そしてクソを出す。それは月のような輝きを放ちますが偽物です。クソは何の役にも立たないけど、そのクソがいつか豊かな土壌になる。だから我々は色んなところにクソを撒いて種を植えなければならないのです。とても謙虚なクソ、それがアートです。」これを聞いたときにホドロフスキーの態度も種を撒く鳥と同じだと思った。謙虚なクソとは、創作と生活が一体化している状態で生み落とされる作品のことかもしれない。それはお金とは結びつきにくいかもしれないが、生活なんだから知ったこっちゃないという態度だ。ホドロフスキーは映画で失敗したあと、別ジャンルに移っても同じような活動を続けていたので説得力がある。文化を豊かに耕してくれるのはこういう作家たちのおかげだと思う。

最近、『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』という書籍の装画を描いた。著者の乗代雄介さん(以下、のりしろさん)は、自分が知り合った人のなかでもっとも上で書いたような素知らぬ態度で創作している人だ。The Kinksを聴きながらのりしろさんの初期作品を読み込んでいるうちに、この本は創作と生活の一体化を果たそうとしている作家の記録なんだなと思った。そして、その記録とは笑いのつるべ打ちなのだが、読んでいるうちに不思議と「おれもこうありたい」という気持ちになってくる。読んだ人の思想を変えてしまうギャグ小説がいまだかつて存在しただろうか。魅了されたが最後、この立つほどに分厚い本はモノリスとなってわたしを変身させてしまうのだ。

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