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豊聡耳神子の潜伏期間は、1400年じゃなく140年で済んだかもしれない

『老子』を読んだら面白かったので、その感想文として、同人弾幕STG「東方神霊廟〜Ten Desires.」の登場人物、豊聡耳神子(とよさとみみ・の・みこ)と絡めたお話をしたいと思います。

底本はこちら。↓
老子 (ちくま学芸文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480095136/ref=cm_sw_r_tw_api_fabc_QKg3FbTSQRPPF


1.老子ってどんな本?


『老子』(別名『老子道徳経』)は、中国の春秋時代(約2700〜2400年前)に老子が著したとされる書です。
仁義や礼節など、人為的に設定された道徳目標を目指して生きるのではなく、何者にも縛られず物事のあるがままを見聞きし、なすがままに生きることが「道(タオ)」であるという「無為自然」の考え方を提唱しました。
それを象徴する一節が「大道廃、有仁義(大道廃れて仁義有り)」です。すなわち、仁義なる概念が見出されるようになったのは、人々がタオを見失ったからであるというわけです。

なお、『老子』の著者とされる老子は、実在の人物であったか否かが定かではありません。
そう、聖徳太子(=豊聡耳神子)のように。

『老子』は『荘子』と並んで後世の人々に読み継がれ、彼らの系譜を継ぐ思想家は「道家」と称されるようになりました。
道家の説いた老荘思想は、後漢末に興った太平道・五斗米道という二つの新興宗教や、古来より信仰されていた陰陽五行説などと合流し、南北朝時代(約1600年前)に道教として一つの宗教にまで発展しました。


2.豊聡耳神子の政治手法と老荘思想


そんなわけで、『老子』を紐解くことにより、豊聡耳神子が何を目指して道教者となったかを窺い知ることができます。
そして、「無為自然」は「解脱」と思ったよりも近い概念で、「仏教を統治の方便としつつ自分はこっそり道教をやる」という神子の政治手法もそこまでチグハグではないことも分かるのです。

悟りを得て仏陀となることを目指すのが仏道修行であるのに対し、道教での修行は「気(=紅美鈴が操れるやつ)」を整えて神仙となることを目指します。
目指しているものが違っても、欲望や先入観を廃し、明鏡止水のごとき心身の安寧を手に入れるという点では、仏教における解脱と道教における無為自然は似通っているように、私には見受けられます。

ところで、仏教を統治の方便として利用するというのは、明治時代において立憲主義を、そして現代においてポリコレをお題目として利用することと大差はない、と言って差し支えないでしょう。
さらに、民衆を上手く欺き、国内治安の平定を図るという点においては、マキャヴェリ『君主論』にも通じるところがあると考えられます。

日本では朱子学が江戸時代に重用されて以来、統治者の仁徳と政治手腕が同一視されがちですが、それ以前の時代においても統治者が同じ思想を持っていたか、民衆がそのような統治者を待望していたかと言えば決してそうとも限らないのではないでしょうか。
むしろ、豊聡耳神子のようなやり方の方が、かえって真実だったのかもしれません。

「仏教が本当にありがたいかはともかく、隋とは今後友好関係を築きたいし、その隋が仏教推しだし、国内の民にも共通の信仰を持たせた方が治安の向上に役立つだろう」という考えの方が、「仏教最高!みんなにも広めたろ!」よりもよっぽどリアルで合理的な考え方ですし、豊聡耳神子が仏教を受容した理由としては説得力があると思いませんか。


3.豊聡耳神子は尸解仙になる機を窺いすぎたのでは?


さて、東方神霊廟のバックストーリーには、「神子の目算は外れ、仏教は神子の実在性を危うくするほどまでに強力かつ長きにわたってこの国を支配した。」となっています。
これは、仏教の経典研究が進むにつれて様々な宗派が生まれ、より多くの人に仏教がフィットするようになったことが最大の要因と私は考えます。

神子が仏教が廃れるのを待つ間には、天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗などの様々な宗派が誕生し、仏教の勢いはそのたびにもり返しました。

特に、民衆に分かりやすい教えを説いた浄土真宗の影響力は絶大だったことでしょう。これまでの仏教は、厳しい修行をしても現世では仏陀にはなれやせず、死後にようやく仏陀として生まれ変われるかどうか、というものでしたから、一般民衆には馴染みにくいものでした。
しかし、「一切衆生は阿弥陀仏の思し召しによって極楽浄土に生まれ変わるのである。何とありがたいことか。さあ阿弥陀仏を讃えよう。南無阿弥陀仏」と説く浄土宗・浄土真宗、さらには踊りで念仏を体現しようとした時宗は、一般民衆に「おらも極楽往生できるずら!なんまんだぶ!」と希望を与えました。

そして、一般民衆に念仏が浸透し、「仏教=名前くらいは聞いたことある」状態に至ったからこそ、寺請制度も戸籍の代替として機能しました。寺請は、中世ヨーロッパで教会が出生と死亡を管理していたこととパラレルですからね。
この寺請制度が、現代日本人の仏教に対するイメージ「葬式仏教」の所以となっています。死んだら所属の寺院に届け出て、荼毘に付してもらうわけですから、「仏教=不幸があったときに世話になるもの」という発想を一般民衆が持つのも当然というものです。

結局のところ、統治の方便としての仏教が強く日本を支配したのは奈良時代までと江戸時代くらいのものでした。
とりわけ、遣唐使廃止後の仏教の力は、少なくとも国家権力との結びつきという点では薄いです。また、江戸時代は戸籍管理の実務として寺請が採用されたというだけで、統治のイデオロギーは朱子学だったわけですから、奈良時代の鎮護国家仏教とは政治による利用のされ方が全く異なります。

したがって、神子が再臨するタイミングがこの1400年間の中にあったとすれば、最適だったのは奈良時代末期くらいしか無かったのではないでしょうか。
奈良の大仏建立後、権力と深く結びつきすぎたために退廃し堕落した仏教の時代。この時に暗躍した高僧が道鏡で「道教」と読みが同じなのも、意味深長です。

この時代に神子が再臨して桓武天皇の摂政になっていたら、以後の日本は道教に基づく「無為自然を以て貴しと為す」国家運営がなされていたことでしょうし、都は奈良のままで京都はド田舎だったでしょうし、聖徳太子は1万円札どころか5000兆円札の顔になっていたことでしょう。

かわいそうな太子様。

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