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妄想日本史「戦前日本ウマ娘レース史概要」

※本記事において登場する「馬」の字は、点が4個ではなく2個あるものとして読んでください。また、元ネタのほとんどはWikipediaですが、記事内での整合性の確保のために脚色を施した部分が多いので、「そういう強めの幻覚」として楽しんでください。
あと余談ですが本当は流鏑馬ルドルフのスクショを使いたかったけど引けませんでした。

 現在、URAが開催するトゥインクルシリーズを中心に大きな盛り上がりを見せているウマ娘レース。本項においては、明治時代以降の日本においてウマ娘レースが定着し、文化として確立した黎明期を中心に振り返ることとしたい。


1.前近代のくらべウマ娘が西洋式ウマ娘レースに

 『日本書紀』によると、7世紀の天武天皇の時代には既に宮中行事として「くらべウマ娘」が行われていた。行われていた形式の中で最もポピュラーなものは、2人のウマ娘が直線のバ場を走る速さを競うもので、早い話が直線コースのレースである。
 また、各地においても神事としてくらべウマ娘や舞、流鏑馬が行われていた。トレセン学園で行われる「駿大祭」において流鏑馬や舞を奉納するのは、ウマ娘が古来より神事と深いかかわりを持っていたことを現代においても伝承するものである。

 江戸時代も幕末に入り横浜や神戸に外国人居留地が設けられると、そこでイギリスやフランス、アメリカから舶来したウマ娘による西洋式のレースが行われるようになった(居留地競走)。1866年には江戸幕府が、常設の競馬場としては日本初となる横浜競走場(別名根岸競走場。根岸ステークスの命名由来)を建設した。横浜競走場で行われたウイニングライブは、日本人が西洋音楽に触れる入口の一つになったとも言われる。

 明治時代に入ると、西洋文明を取り入れたい先進的な人々を中心に西洋式ウマ娘レースの存在が知られるようになり、横浜競走場に行われた西洋式ウマ娘レースを模倣して全国で行われていたくらべウマ娘も洋式化する箇所が現れた。くらべウマ娘を西洋式ウマ娘レースに転化させていったケースが、笠松や高知など各所で開催されている地方レースの起源だといえるだろう。
 ウマ娘レースやウイニングライブが神事としてではなく、スポーツとエンターテイメントの両方を併せ持った興行として成立することは皇室の知るところにもなった。1880年には民間人の間で結成された「日本レース・クラブ」が、優勝ウマ娘に皇室から下賜された賞品を贈呈するレースを開催した。これが「帝室御章典」すなわち現在の天皇賞の始まりである。当初の賞品は楯ではなく銀製の花瓶や陶磁器など様々で、開催時期もまだ不定期だった。現在であれば「天皇杯」と呼ばれていただろう。


2.競バ黙許時代

 日露戦争以降、日本政府は陸軍ウマ娘隊の強化を図るために各地で行われていたウマ娘レースや奉納舞を体系化していくこととし、1905年に内閣直属のバ政局を設置した。翌年には日本人が運営する初のウマ娘団体、東京競走会が結成された。
 東京競走会によるレースやウイニングライブが大成功を収めたことから、この機を逃すまいと全国各地から同様のウマ娘団体の設立申請が政府に押し寄せた。しかし、安田伊左衛門(元陸軍ウマ娘隊教官、後述する日本競バ会初代会長及びURA初代会長)や尾崎行雄(元文部大臣、当時の東京市長)が一流のスタッフを集めてレース等を運営した東京競走会とは異なり、これらのウマ娘団体には運営ノウハウや肝心のウマ娘の人数自体が不足していた。そのためレース中のラフプレーやウイニングライブでの風紀の乱れが横行し、1908年にウマ娘レース及びウイニングライブの禁止令が政府から発せられた。東京競走会の結成からわずか2年のことであり、この短い期間を競バ黙許時代という。


3.レースの再開と日本競バ会の設立


 上述の通り西洋式ウマ娘レースとウイニングライブは政府により禁止されたが、一方で西洋の進んだ文化として人バ両方にとって魅力的であったことから、これらの興行の再開を求める声が相次いだ。中には田中正造のように天皇に直訴をした者も現れたというが、これは噂の域を出ていない。
 政府としても陸軍ウマ娘隊の強化育成という当初の目的を白紙にするわけにはいかず「風紀は乱れたが、しかしそれはそれとしてウマ娘がレースで活躍するのはいいこと」という認識があったことから、1923年に競バ法を制定してレース及びウイニングライブを解禁した。

 競バ法の施行により、全国で11のウマ娘団体がレース運営団体として認可された。特に安田伊左衛門を理事長に擁した東京ウマ娘俱楽部は、イギリスのダービーステークスをモデルとした東京優駿大競走を1932年に開催した。これが現在の日本ダービーの始まりである。

 安田伊左衛門が東京ウマ娘倶楽部や後述する日本競バ会における施策方針として重視していたのは、ウマ娘レースを「ウマ娘たちのキャリア形成を支援する場」と位置づけ、近代日本における新しいヒトとウマ娘の共生社会の形成を企図することである。
 これまで述べた通り、日本政府におけるウマ娘レースの奨励には常に将来の軍事利用という目的があった。しかし、陸軍ウマ娘隊の教官であった安田は、近代化により労働力としての活躍の機会を徐々に機械に奪われつつあったウマ娘たちにとって、新たな社会参画の方法が開かれていることの必要性を痛感していた。
 このことから、元陸軍軍人兼衆議院議員としての影響力を行使し、ウマ娘レースにおける軍事色を払拭することに成功したのである。

 このようなレースを通したウマ娘のキャリア形成という視点は、日本ダービーの設立にも影響している。
 これまでに行われていた賞レースと比べて日本ダービーが画期的だった点は、日本のウマ娘育成段階にジュニア級・クラシック級・シニア級(当時は初級・優駿級・上級の呼び名だった)の区別を付け、デビューから引退までのウマ娘のレースキャリアを体系づけたことである。
 クラシック級に制覇すべきレースの最高峰として日本ダービーがあり、シニア級においては帝室御章典があり、それらに向かって育成スケジュールを逆算して策定する、というイギリス式のウマ娘育成スタイルが日本ダービーの創設によって日本でも確立されたのである。

 東京ウマ娘倶楽部の施策方針に鑑み、全国のウマ娘レースを体系化及び運営ノウハウを一元的に蓄積する必要が生じたことから、政府は1936年に11団体すべてのウマ娘団体を統合する形で日本競バ会(NKK)が設立された。以降、帝室御章典はNKKが主催者となり、東京競走場で秋季を、阪神競走場で春季を開催する年2回開催の方式に落ち着いた。
 NKKが運営していたレース場は札幌・函館・福島・新潟(関屋)・新潟・中山・東京・横浜・京都・阪神(鳴尾)・小倉・宮崎の12場で、新潟・横浜・阪神・宮崎以外の8場はおおむね現在と同じ位置に建設されていた。
 新潟は現在の豊栄ではなく関屋、阪神は仁川ではなく鳴尾に建設されており、これが「関屋記念」「鳴尾記念」の命名由来となっている。


4.最初の三冠ウマ娘誕生


 NKKの初代理事長に就任した安田は、イギリスにならいクラシック級における三冠レース・ティアラレースを創設した。
 1938年には阪神姫冠(現在のオークス)と京都農林省章典(現在の菊花賞)、翌年には中山姫冠特別(現在の桜花賞)と横浜農林省章典(現在の皐月賞)が創設され、横浜農林省章典・東京優駿・京都農林省章典の3つのレースが「クラシック三冠(当時は優駿三冠)」、中山姫冠特別と阪神姫冠の2つのレースが「ダブルティアラ(当時は二大姫冠)」と呼ばれるようになった。

 また、レースの体系化には育成機関の体系化も必要とされ、NKK発足とほぼ同時期に1936年に創立したのが帝国優駿学校、現在のトレセン学園である。現在は東京都府中市の東京レース場近辺に存在するが、創立当初は中山レース場の近傍である方が簡便だったため千葉県白井市にあった。
 なお、当時の帝国優駿学校にもやはり2つの寮があり、それぞれ下総寮・小岩井寮といった。後述する初代三冠ウマ娘セントライトは小岩井寮、そしてセントライトと入学前から旧知の仲であったダイオライトは下総寮の出身である。
 また、当初はまだ国際情勢が悪化する前だったので、海外からの留学生も多く受け入れた。トレーナーや教官ら指導者陣は、彼女たちを手本に日本のウマ娘のレベルを向上させんと怪気炎であった。

 クラシック三冠レースが確立して3年目の1941年、帝国優駿学校に初代三冠ウマ娘が誕生した。初代生徒会長のセントライトである。

 現代であればヒシアケボノを彷彿とさせるような、大柄な体格におおらかな性格を持ったセントライトは、レースとなると非常に負けん気が強くなり、オグリキャップをしのぐほどの競り合いの強さを発揮した。
 また入学時期がちょうど三冠レースの成立と重なったことから、これらを制覇して三冠ウマ娘となることへの憧れと情熱は人一倍強かった。

 当時はまだジュニア級のレースが少なかったことからデビューがクラシック級の3月と遅れたものの、メイクデビュー5バ身差勝ちの次にいきなり横浜農林省章典に出走して3バ身差の圧勝。その後中山・東京で計4戦3勝し、迎えた東京優駿では田んぼのような重バ場の中を8馬身差で大勝した。
 この8バ身差の着差は、現在に至るまで日本ダービー史上最大の着差となっている。

 持ち前のおおらかさで京都への遠征にも神経をすり減らすことなく絶好調のやる気で京都農林省章典に出走した。6人立ての少人数ではあったが、2着のミナミモアに2バ身半差をつけて優勝し、クラシック三冠を達成した。

 しかし、当時はまだ世間にクラシック三冠の概念がそこまで浸透しておらず、セントライトの三冠達成がダービー制覇時ほどのセンセーションを巻き起こすことはなかった。月日は1941年10月26日、太平洋戦争の開戦からさかのぼることわずか1か月強という時勢もまた彼女の栄光を覆い隠す暗雲であったのかもしれない。

 シニア級になったセントライトは春の帝室御章典を目標にトレーニングを行っていたが、情勢不安を理由にこれに出走せず引退することを表明。クラシック級のレースのみでそのレーシングキャリアを終えることとした。
 通算戦績は12戦9勝。育成ランクはC+だった。

 なお、彼女自身は帝室御章典に出走しなかったが、1947年に帝室御章典の後継レースとして開催された平和賞(のちに「天皇賞」に改称)をオーライトが制した際、「セントライト先輩の想いを受け継いで走った」とコメントを残している。


5.戦局の悪化とウマ娘の疎開


 セントライトがクラシック三冠を達成したのは1941年のことだったが、その後太平洋戦争の激化により陸軍からウマ娘の学徒出陣要請がかけられた。
 これを跳ねのけたのが安田伊左衛門である。曰く、「ウマ娘は戦力として徴用しこれを消費するよりも、むしろ競走や演舞といった興行をもってして兵士を慰労し国民を鼓舞せしむるべきである。これによる国威発揚の効果は陸海双方に及ぶものであるため、単に志那大陸あるいはマラヤ、ビルマにおいて上げられるであろう陸上の戦果をはるかに凌駕するものであることは論をまたない」。

 この安田の英断により帝国優駿学校の生徒たちは全国へ疎開し、そのほとんどが戦火を免れたのであった。

 しかし時勢柄興行を従前と同等の規模で継続するわけにはいかず、また交換条件的にレース場が飛行場として接収されたことから、44年には興行規模の縮小、45年にはレースの全面中止及び学園関係者の疎開の措置が取られた。特に日本ダービーにおいてウイニングライブが開催されなかったのは、新型コロナウイルス感染拡大防止策として無観客レースを行った2020年を除くと1944年のみである。

 疎開したウマ娘が最も苦しんだのが食糧難であることは言うまでもない。


※気が向いたら戦後も書きます。

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