中途半端な執念

今まで生きてきて嫌だったこと、といえば3歳の頃に毎日自転車で追いかけに来た幼なじみのこと、幼稚園で何人もの女の子に何回も可愛くないなどの理由をつけられ仲間外れにされたこと、などなどで、このまま今現在の嫌なことまで書くと、確実にみなさんが飽きてしまうので幼児の頃のもので終わりにしておきたい。

先日塾講に「嫌だったことをいつまでも覚えているタイプですか?」と問われた時、私は「いや、あまり。」と答えた。なぜなら質問を聞いた時、私には今までにあった嫌なことを思い出してみたが、どうも特にこれといったものが思い浮かばなかったのだ。

その時私は丸が少ない数学のテストをもう一度解き直ししているところだった。赤点ギリギリで、間違えたところが多すぎてどこを間違えたのか把握することすら諦めた。
「間違えた問題は次から間違えない。」これはよく言われる話であるが、間違いが多すぎては間違えた個々の問題に対する悔しさが分散されてしまう。気がする。否、そうでもなかった気がしてきた。私は「祖先」の「祖」だけが覚えられず、いつも「租」と書いていた。間違いが少なくても間違える時は間違える。間違えまくる。何度も何度も。そんなもんだと思う。いやそれも私だけだな。恥ずかしい話である。

話を戻して、私は、嫌だったことが「微妙に」忘れられない人間だ。さっきのテストの間違いみたいに、嫌なことの中には記憶がスカスカになっていて、それがどうして嫌だったのか、もしくはそれが嫌だったという事実そのものを忘れていることもある。

では私はここで今結局何が言いたいのか?
かなり話が飛ぶが、
私は執念で頑張るということが出来ない。
それが悔しい、ということだ。

嫌だったことをバネにして頑張る。というのは私がやってみたいことランキングの栄えある第一位である。嫌な目に遭うのは嫌だけど。
嫌、辛い、怖い、嬉しいなど、負だろうが正だろうが、感情というのは大抵「その瞬間」がピークだろう。どんなに苦しいことも幸せなことも月日が経てば、多少はその感情が薄れていく。だから私はテストで悪い点を取ろうが嫌いな人間に酷いことをされようが、その瞬間をピークにして嫌な感情が薄れていくように思うのだ。それはいいことと思うかもしれないが、嫌なことを糧にして執念にして人間は頑張ることが出来る。私はそれ以外に自分を鼓舞するものが無いのでずっとそうしてきた。だか、時が経つにつれ感情も薄れ、頑張ることに対してモチベーションが下がってしまう。するとどうだろう、何事にも中途半端な努力しか出来ない。また不幸なことに、完全に嫌だったことが忘れられる訳では無い。いつまでもいつまでも引きずって、なのに人に問われれば引きずってなんかいないと答える。宙ぶらりんな状態である。いつからかそんなことばかりだ。

中学三年生の時に、頑張ることについて作文を書いたことを覚えている。弁論大会に3年連続出場したものの一度も入賞できなかったことに対する嘆きを4枚半に渡って書き連ねた代物で、その作文は地方審査で一番良い賞をとった。作文の中で私は「努力なんかしても無駄なのかなと思いました。」と述べている。今の私からすれば、中途半端な努力しかしていない人間には中途半端な評価しか貰えなくて当たり前だろうと思う。きっと私は、これから先もずっと中途半端な努力しか出来ない。

嫌だったことは忘れたいけど執念を糧に努力したい