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ワタクシ流☆絵解き館その251 青木繁・知られていない風刺画の仕事を見る

🔘 「わだつみのいろこの宮」創作当時のアルバイト画業


青木繁のデッサン類は、油彩完成画で残っている作品の数と比較すれば、相当な数が伝わっているが、アルバイトとして、雑誌に風刺画を描いていたことを語っている文章は目にしない。
ひっそりとした仕事だったのだろう。1907 ( 明治40 ) 年、富強団刊の雑誌「世界之日本」の第3巻第2号( 6月号 ) および第3巻第3号( 7月号 ) に、青木繁が描いた風刺画が掲載されている。

なお、1907 ( 明治40 ) 年は、渾身の作「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会 ( 3月20日から7月31日まで開催 ) に出品した年であり、三等賞末席という心外な審査結果に対し、失意の裏返しのように、美術誌上などに憤懣を書き散らしていたが、同年8月には、父親危篤の報を受け、故郷久留米に帰っている。そして以後中央画壇に帰り咲くことはなった。

つまり、この風刺画のアルバイトは、一子幸彦が生まれて間もない時期の生活費稼ぎのためとはいえ、雑誌の発行期日から見れば、「わだつみのいろこの宮」で、必ずや一躍名声を得ると心中期していた時期であろうから、絵には遊び心と、鷹揚とした発想が感じとれる。
青木の画友や白馬会の若い画家たちの多くが、生活のためにこなしていたこういう挿絵、風刺画のような仕事を拾いながら、画家としての立ち位置を探る道は、青木にも開かれていた証になろう。
良くも悪くも、それをよしとしない気概が人一倍強かったのが、青木繁であった。

先ずは、1907 ( 明治40 ) 年、富強団刊の雑誌「世界之日本」の第3巻第1号に載った「社告」の一部を下に掲げる。次号からの青木繁の登場を告げている。青木を紹介する肩書は、新進神秘画大家となっている。
しかしながら青木の登場は、この大仰な社告に反して、第2号、第3号の2冊のみで終わっている。青木が久留米へ去ったことで、描き手を失ったのだろうし、何より雑誌の構成自体が第4号から大きく変わっていて、風刺画の頁も消えている。

1907 ( 明治40 ) 年「世界之日本」の第3巻第1号より 社告の部分

以下、掲げる図版が、青木の描いた風刺画である。
この風刺画が表しているのは、『創世記』の語る場面と思われる。『創世記』の解説は省くが、神は「我に似たる俤 ( おもかげ ) の人間を造らん あらゆる生き物の主となさん」と書かれており、また、その後「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく家畜も這うもの空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する」とある。
そして神は全ての創造物を全滅させることを決意し、大洪水で人を滅ぼすノアの大洪水へとつながってゆく。

このストーリーを念頭に、横並び三枚の絵を眺めてみると、(右端1)の絵柄の、神の代理としての人を創造したつもりが、(左端3) の絵柄では、戦う姿の、人間ならぬでくのぼうを造っている様子で、善なる人間を造り誤ったという『創世記』の記述を戯画化しているように見えて来る。

1907 ( 明治40 ) 年7月 雑誌「世界之日本」第3巻第3号より  青木繁「成金と大熊」

💠 (1) ・・・昔むかし嘗ては人彼をこそ造りしが・・・

上の図版より 部分

💠 (2) ・・・中ごろ餘りに人の愛する所と為りしかば・・・

上の図版より 部分

💠 (3) ・・・今や遂に彼は嘗て人をこそ造れるに非ざる無きか?

上の図版より 部分

そして、この風刺画は、明治40年1月に、金尾文淵堂より出版された中村春雨 著『舊約物語』に添えた挿絵 ( 挿図①~③ ) の仕事が、着想の起点になっているだろう。

明治40年1月 金尾文淵堂刊 中村春雨 著『舊約物語』目次部分 挿画青木繁とある
挿図① 青木繁・絵「約物語」ネブカデネザルとダニエル 1906年作
挿図② 青木繁・絵「舊約物語 」葦舟のモーゼ 1906年作
挿図③ 青木繁・絵 「舊約物語」 エステルとハマン 1906年作

風刺画の目次一括タイトルには「成金と大熊」とあるから、明治37年2月から明治38年8月までの日露戦争のあとの世相を風刺しているだろう。
右の絵は、その戦争成金の暮らしぶりを、左の絵は、日露戦終結の仲介をしたアメリカと、そのおかげでどうにか勝利に持って行った日本の、文化面経済力の格の違いを皮肉っているのだろう。

1907 ( 明治40 ) 年7月 雑誌「世界之日本」第3巻第3号  青木繁「成金と大熊」より

💠 まだまだ勝負にゃなりそうもない八百長だ 日・米

上の図版より 部分

背景は「海の幸」を取材した房総、布良の風景に見えて来る。とすれば、ハッピーライフを謳歌するのは、青木自身と福田たねということか?
実際青木はシルクハットを買ってきて、それで町を歩き周囲を驚かせていたという。

💠 ハッピーライフ

上の図版より 部分

相場師と自覚していたこの時代の政治家、元勲大隈重信は、日清日露の戦役などで財を成した鈴木久五郎など、成金たちと親密な交際をしたことで知られていた。それを皮肉ったのが下の絵「成金と大熊」であろう。はさみを持った大熊が、いつでもつないだ紐は切れるんだよ、とひざまづく成金商人に言っているのか。
大隈は、当時人気の風刺漫画雑誌「東京パック」にも常連として題材にされていた。「東京パック」に載るその一枚も掲げておく。

💠 成金と大熊

1907 ( 明治40 ) 年7月 雑誌「世界之日本」第3巻第3号   青木繁「成金と大熊」より
1913年 雑誌「東京パック/第9巻第10号」より 大隈重信 (右) を風刺した絵 画家不明

「世界之日本」第3巻第2号掲載の下の絵は、また趣が異なる。この「音無シキカッフェー会議」は、1907年6月第2回の、もしくは1899年第1回のオランダのハーグで開催された国際平和会議をさしていると思われる。
26か国の参加があり、主な参加国を挙げると、ドイツ、オーストリア、ベルギー、清国、デンマーク、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランス、イギリス、ギリシア、イタリア、日本、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、スウェーデン、スイス、トルコなど。
絵の人物が、それぞれどの国か眺めてみるのも一興だ。日本人はいないように見える。
帝国主義諸国による相互牽制的な目的を持った会議であったが、軍縮についての協定は合意に至らず、以後の世界秩序の安定という成果は上げ得ずに終わった。それが「音無シキ」の言葉と、各国要人の冴えない表情に表現されているだろう。

1907 ( 明治40 ) 年6月 雑誌「世界之日本」第3巻第2号より  青木繁「音無シキカッフェー会議」

🔘 表紙絵も青木繁が描いたのでは?

ところでこの「世界之日本」には、気になる絵がある。表紙絵である。( 挿図④ )
表紙絵の作者は、目次にも巻末にも記されていないので、作者不明だ。しかし、大きなきな瞳、厚い唇という青木の特色を、この表紙絵は持っていると思う。
サインらしいものが絵の右下 ( 挿図⑥ ) にあるが、何を表しているのかわからない。上の風刺画「音無しきカッフェー会議」の右下に同じような形状のサインらしきもの ( 挿図⑦ )が添えられているので比較してみるが、微妙に異なる。

参照するのに相応しい青木の絵として、この絵の顔と同じ特徴を持った1903年の素描( 下の挿図⑧ ) が残っている。
雑誌のコーナー企画を依頼するほどの画家に、表紙絵も依頼するのは、不思議なことではないだろう。よって、表紙絵も青木繁によるものではないかと私は推察している。

さらには、この表紙絵の裸身の女性が何かを捧げるポーズから、岩野泡鳴詩集「夕潮」( 明治37年12月出版 ) の挿絵として青木が描いた「発作其一」「発作其二」( 挿図⑨ ) の図柄を思い起こす。これらの絵の発想は、同じ線上にあるものではないかと思われる。

挿図④ 画家不詳 「世界之日本」表紙絵 1907年
挿図⑤ 画家不詳「世界之日本」表紙絵 部分拡大
挿図⑥ 画家不詳「世界之日本」表紙絵 部分拡大
挿図⑦ 「音無しきカッフェー会議」にあるサイン?
挿図⑧ 1904年 青木繁 素描 色鉛筆・紙
挿図⑨ 1905年 岩野泡鳴詩集「夕潮」の挿絵  青木繁「発作其一」「発作其二」

以上見て来た青木の知られていない風刺画からわかるのは、次のことだ。

🧿 天地創造の主題を、一貫して胸中に持っていたこと
🧿 坂本繁二郎、森田恒友らの親友が、雑誌の挿絵、コマ絵を描いていたのと同じく、青木もそいうい仕事を全く遠ざけていたわけではないこと
🧿 他にも、名の通っていない雑誌などで、挿絵の仕事をしているのかもしれず、またサインなしの絵も埋もれているかもしれないこと

                                   令和5年11月                                           瀬戸風  凪
                                                                                                      setokaze nagi


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