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ワタクシ流☆絵解き館その109 青木繁「海の幸」⑳太陽神信仰への共感と羨望

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青木繁 「輪転」 1903年 アーティゾン美術館蔵

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青木繁 「海の幸」 1904年  重要文化財 アーティゾン美術館蔵

以下、この記事の中で用いた図版は、「輪転」「海の幸」の一部を説明のため切り取り加工・輪郭線加筆・キャプション挿入を行った。

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上に掲げた青木繁の「輪転」は、どういった場面を描いているのか。以前この絵を取り上げたとき、答のないままに終わった疑問をその後も追い続けているうちに、ひとつの手掛かりに巡り合った。
現代のヒンドゥー教につながっている古代インドのバラモン教の聖典のうち、最初期の神々への賛歌集が〈リグ・ヴェーダ〉(全10巻 「リグ」は「讃歌」、「ヴェーダ」は「知識」の意味である。青木は、このヴェーダの文化を学び、大いに刺激された旨の発言をしている。
この〈リグ・ヴェーダ〉の中に示されている柱の思想が太陽神信仰である。
太陽神とは、太陽こそは万物を生かす力の源であり、ゆえに神聖なものとして、太陽を崇めるべき神とすることである。これは人類にとって最も素朴で原初的な、自然崇拝の信仰であろう。
ヴェーダにおける信仰対象の太陽神がスーリヤ。その母とも恋人とも解釈されている存在が、曙の女神ウシャスだ。ウシャスは、赤い光に包まれた四輪の馬車に乗るという。
ともあれその女神ウシャスを讃えた〈リグ・ヴェーダ〉の一節を掲げる。

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なぜ「車両」というフレーズが出て来るのか。それは〈リグ・ヴェーダ〉の文化を築いた民、アーリア人(中央アジア出地の民族)が、スポーク式車輪を発明したことによる。
このスポーク式車輪は戦車に利用されて圧倒的な武力(最新技術の武器)として機能し、インド大陸の先住民たちを駆逐した。その結果、スポーク式車輪はアーリア人のアイデンティティとなり、民族の力の形象とされたのだ。
そして、その車輪は、空をめぐる太陽のイメージに結び付く。ゆえに太陽神信仰の象徴として、スポーク式車輪がうたわれているというわけだ。つまりスポーク式車輪とは「神の依り代」というべきものである。

ヴェーダの文化に傾倒した青木は、このスポーク式車輪を象徴とする太陽神信仰を題材にして、曙の女神ウシャスの乗る馬車を念頭にこの絵を着想し、その情景に自分の思いを込めたのだ。
時間の車輪を回すものの意味を通わせた「輪転」とタイトルをつけて、時代を拓く歓喜を描いたのだろう。
下の図1の彫刻が、「輪転」に描かれた車輪に似ているのが見て取れる。
(なお、地名のコナーラクとは「太陽のあるところ」を意味する)

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「輪転」の踊っているようなポーズ(挿図①②)もまた、このスーリヤ寺院の壁の彫刻(挿図③④)の中に見られるポーズに似ている。
青木の描いた「輪転」は、太陽神を崇め、その象徴である車輪を前に進めて、さらに太陽が昇る勢いのような、歓喜と希望を表現したような舞いによって、新しい時代を呼び寄せようとしている者たちの情景ととらえることができるだろう。
そこに、絵画芸術の新境地を拓こうとする、青年画家青木繁の意気ごみを塗りこめているはずだ。

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今回の記事で述べたいことの主眼は、「ワタクシ流☆絵解き館その92 青木繁「海の幸」⑱ 『海の幸』の原形が浮かび上がる絵『輪転』」で述べたことの補完である。前々回の復習をしてみたい。
前々回述べた結論を図説すると下の図2と図3のようになる。「海の幸」と「輪転」の先頭と後尾の人物は、そのポーズが似ている、ということを言いたい図である。画面の中に、大きな動きと静かな動きを対比させて描くという構成、2枚の絵は同じ画想から発していると。

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日本において、鮫が神聖な生物であるのは、「古事記」が語っている。「ワタクシ流☆絵解き館」の記事、「わだつみのいろこの宮」絵解きの連作でずいぶん述べて来たが、神武天皇の祖、豊玉姫の本態は鮫(「古事記」では和邇=わに と表記されている)となっており、海神の国と地上世界とを自在に行き来する力を持つ。遥かな常世の国から、深厳なものを地上もたらす存在が鮫と信じられているのだ。
「海の幸」には、「古事記」を読み込み、その世界を絵画表現し続けて来た画家の底にある想念が沈潜しているだろう。
現実の漁風景からヒントを得たものであるが、「古事記」に現れる鮫が心奥にあったために構図の要素として選ばれたはずで、絵の中においては、鮫を担いでいる姿は、すなわち神聖なるものを自分たちの内に囲い留めている姿ということになる。だからこそ「海の」、「幸」というタイトルが与えられたと言える。

そういう共通する意識が見て取れる「輪転」と「海の幸」について、さらに今回は、先に描かれた「輪転」での着想が、その後の「海の幸」につながっていることを、絵全体のムード(空気感)という点から推察してみたい。

「輪転」を迫力あるものにしているのは、旭日を思わせる太陽の黄色い輝きと、地から湧き上がる熱気とも風塵とも見える蒼い渦の光である。
その空気感は、「海の幸」の背景にあっても少しも違和感がない、という気がするのだ。つまり「海の幸」もまた、「太陽神信仰」への共感の上に描かれている絵なのではないかと思う。
「海の幸」の背景を、「輪転」の背景に変えてみる試みをしてみたのが以下に並べた図である。

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どうだろうか。「海の幸」も、「輪転」の車輪に代わる大魚を担ぎ、ぎくしゃくした行進ながら、それを高々と祀ってゆく者たちの姿に見えないだろうか。その背景に包み込むような渦(喩えればゴッホの画面の渦巻きか)と、燃えるような日輪が透けて見えるのなら、むしろそれはこの絵にはふさわしい気が筆者にはしている。
描かれた当初、「海の幸」の背景が金色に塗られていた意味は、素直に感じとれば、それによって、まばゆいほどの日のひかりを表現したのであろうと思う。
                         令和4年2月    瀬戸風  凪



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