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ワタクシ流☆絵解き館その181 青木繁「海の幸」の布良―海女の面影。

石井柏亭 「布良海岸」 1910年(明治43年)発行の雑誌「方寸/第4巻第5号」掲載

青木繁、森田恒友、坂本繁二郎、福田たねの四人が、布良を訪れたのは明治37年 ( 1904年 ) の7月である。上の石井柏亭の絵は、その6年後の雑誌に掲載されている。制作年は、さらに早いだろう。
布良は、創作の題材を与えてくれる地として、画家文人に好まれる場所であった。

森田恒友が、画家仲間の山本鼎に宛てた手紙に、青木らと行った布良のことを綴っている。文中のA君は青木繁、「宇美乃佐知」は、もちろん「海の幸」のことだ。
明治42年 (1909年)9月の美術雑誌「方寸/第3巻第7号」に掲載された。

森田恒友、山本鼎宛て書簡の一部

房州の南端は君もお馴染みの処である。A君の頭に魚の腹ひるがへる「宇美乃佐知」を妊ました処で、君が危うく帰らぬ浦島にならうとした処も布良の岸ときいて居る。
布良には僕も一晩宿ったことがある。
( 中略 )布良に着いたときは、午後二時ごろで、広く遠い砂濱では二處で地引が始まって居た。その中で僕はまた一枚描いた。布良は曇った日が佳い。少し暴( し )けた日の暮方は更に佳いさうだ。
( 中略 )正午には身近い處で砂芋を焼いて食って居る。裸体の海女の投げてよこす丸焼きをばかに甘( うま )いといって食った。海女の一人は胸に大きな乳房を下げ、下腹は醜く膨れて居た。海女の一人は歯が目立って白く、頗る佳い聲を持って居た。

当時布良には明治22年設立の海軍望楼があった。布良は東京湾の入り口にあたる国防上の要衝で、監視台として設けられたものである。下に掲げた磯谷武一郎「房州見物」中の、望楼がそれである。

磯谷武一郎 「房州見物」より抜粋  大正6年発行

望楼の下、巌頭百尺の道路より崖下百尺の沙上を見れば、團々がこの夏なるに、紅花を園繞 ( いじょう ) しつつあり。すなはちこれ名高き房州の海女なりしよ。
( 中略 ) 海藻を採る婦女子はさながら、夢を追う天使のごとくに、水中に播焮 ( はんきん ) し、鮑を採るの男児はあたかも黒塗りの仁王に似たり。

また現代詩人、高田敏子に「布良海岸」というよく知られた詩がある。下に全編を掲げる。

「布良海岸」         高田敏子    1961年 ( 昭和36年 ) 作

この夏の一日  島の突端 布良の海に泳いだ
それは人影のない岩鼻 沐浴のようなひとり泳ぎであったが
よせる波は 私の体を滑らかに洗い ほてらせていった
岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと 私の夏は終わっていた
切り通しの道を帰りながら ふとふりむいた岩鼻のあたりには
海女が四五人 波しぶきをあびて立ち  
私がひそかにぬけてきた夏の日が その上にだけかがやいていた

山本鼎 「海女」 1908年(明治41年)6月発行の雑誌 雑誌「方寸/第2巻第5号」掲載

高田敏子の詩「布良海岸」は1961年 ( 昭和36年) の作だから、青木の布良の旅からは、54年が経過している。その時代においても、海女の姿がうたわれているのに注目したい。当然「海の幸」の明治37年にも、布良には海女の姿が見られた。
森田恒友が、画家仲間の山本鼎に宛てた書簡の文中に「房州の南端は君もお馴染みの処である」とあるから、上の山本鼎の明治41年の絵「海女」は、布良で見た海女の可能性があるだろう。

下の絵は、青木森田らと同時代の画家、太田三郎の絵。房州の海女であった娘を 裸体のモデルとして使ったことがあった、と述べている。これもまた布良の海女の可能性がある。

太田三郎 明治42年第三回文展出品作油彩の絵葉書 「磯」

下の森田恒友の絵は海女の姿ではないが、「緑の海原」という絵のタイトルと、魚籠のような籠、海の彼方に見える島影を思い合わせれば、漁村で見た女のイメージが元にあるように見える。
あるいは布良の旅で見た光景が、生きているのかもしれない。

1910年(明治43年)2月発行「方寸/第4巻第2号」挿絵 森田恒友「緑の海原」

以下の写真は、明治時代の布良の風景である。

明治時代撮影 布良漁港 「広報たてやま」より引用 (紙面の裏が透けている)
青木らが訪れた時にはあった帝国水難救済会布良救難所 「広報たてやま」より引用

                  令和4年9月     瀬戸風    凪

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