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ワタクシ流☆絵解き館その164 もう一度開催してほしい!―明治40年(1907年)東京府勧業博覧会の光彩⑤

今回の記事は、「ワタクシ流☆絵解き館その145~148」の「明治40年東京府勧業博覧会の光彩」①~④の続編です。

改めて述べるが、明治40年東京府勧業博覧会の美術展は、出品した渾身の作、「わだつみのいろこの宮」の低い評価に、青木繁が激怒したという形容が添えられて語られることがほとんどである。

そのように、正当な審査が歪められた美術展であった印象だけが伝わるのはさびしいことだ。この美術展には、そこを出発点として、繚乱と開いた百花の才能が集っていたことは見直されていい。
標題に言ったように、叶うならもう一度再現開催してほしい、今日でもきっとワクワクする美術展なのだ。(所在のわからない絵が半分はあることだろうが)
①~④に続いて、この展覧会に出品した、今日一般的には知られていない画家たちについて、今回も勉強してみたい。

■ 山下 繁雄

東京府勧業博覧会には「秋」を出品。
山下繁雄は、明治16年生まれで、青木繁とほぼ同年。(青木は明治15年生まれ)  小山正太郎に師事し、太平洋画会の研究所にも学んだ。
大正3年の文展に出品した「軍鶏」が入選して以来、軍鶏を描き続け、昭和7年帝展出品の「軍鶏」と同8年帝展の「軍鶏」はともに特選。
奈良に住んで〝平城画工〟と名乗る。晩年まで日展に闘鶏の軍鶏の絵を出品し続けた。
1951年(昭和26年)に、奈良県文化功労者として表彰を受けた。東京府勧業博覧会でスタートした画家としては「功成り名遂げた」部類に入る。

明治40年東京府勧業博覧会美術館出品図録より 山下繁雄「秋」
山下 繁雄 「軍鶏」油彩 制作年不明

■ 磯部 忠一

東京府勧業博覧会には「ゆふ日」を出品。
磯部忠一は、明治13年生まれ。内閣印刷局工芸部門の責任者で彫刻課の図案官。62 歳で退官するまで、紙幣、切手やその他の証券類のデザイナーであった。印刷局の先輩デザイナーであった画家石井柏亭との関係から、大正2年(1913年)には日本水彩画会の創立に関わって、水彩画も発表した。
明治期から大正期の重要な水彩画家としても位置付けられる画家。受けを狙った絵に特有の俗臭が磯部の水彩画にはなく、清涼感が何よりの魅力だ。

コンテ画は磯部によるものだが、彫刻仕上げは、以前この記事で取り上げた森本茂雄による
森本も東京府勧業博覧会に出品した画家である
磯部 忠一「築地河岸」 美術雑誌「方寸」挿絵より 1907年10月 第1巻第5号 

下の図版は図案家としての特徴が見られる。

磯部 忠一「葵」 美術雑誌「方寸」挿絵より 1907年7月 第1巻第3号 

磯部忠一には余技であった水彩画だが、日本の風土が匂い立つような腕の冴えがある。

磯部 忠一「早春」 美術雑誌「みづゑ」(水彩畫寫眞版)より 明治44年
磯部 忠一「荒川」 美術雑誌「みづゑ」(水彩畫寫眞版)より 明治42年

■ 小林 千古

東京府勧業博覧会には「誘惑」を出品。
「誘惑」は、青木の「わだつみのいろこの宮」とともに異色の(一見奇妙なとまどいをもたらすとも言えるだろう)作品として、会期中すでに話題になっている。
小林千古は、明治3年生まれ。移民として渡米して、学資を稼ぎながら絵を学び、帰国して白馬会に入会した。明治40年東京府勧業博覧会の出品画家としては年長。
明治39年からは学習院女学部で教えた。さらなる活躍を期待されたが、明治40年東京府勧業博覧会から4年後の明治44年10月に42歳で病没した。
小山正太郎、浅井忠、黒田清輝ら明治画壇の日本人先駆者たちに学んだ、多くの新進画家とは違い、日本を離れ、直接西洋人の画家に学んだ特色が絵に表れていて、その一つとして、寓意を含んだ宗教画のエッセンスがにじみ出ている。

※ 明治40年東京府勧業博覧会以前の作品
小林 千古「秋」 雑誌「白百合」第2巻12号図版より 1905年(明治38年)10月
※ 明治40年東京府勧業博覧会以前の作品
小林 千古 「ニューヨーク公園の紅葉」1901年(明治34年) 油彩 個人蔵
※ 明治40年東京府勧業博覧会以前の作品
小林 千古「中道」 1905年12月 第20巻第12号「婦人雑誌」掲載図版より

■ 石川欽一郎

東京府勧業博覧会には「満洲の風景」を出品。
石川欽一郎は明治3年生まれ。逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入り、英国の水彩画を独学で学んだ。その後、陸軍参謀本部の通訳官となって1907年に台湾へ赴任し、1907~16年の間に中学校や国語学校で美術教師を兼務した。さらに1924~32年には、師範学校で美術教師を務め、計17年間を台湾で過ごした。この間、台湾に多くの画家を育てた。

石川 欽一郎 第一回文展出品 「戸隠高原」
石川 欽一郎「ホトトギス 第30巻第11号」挿絵 昭和2年8月

■ 庄野宗之亮 ( しょうの そうのすけ )

東京府勧業博覧会には「霜解」を出品。
庄野宗之亮は1876年(明治9年)生まれ。東京美術学校西洋画科で浅井忠に師事。1902年の太平洋画会の結成に際しては、石井柏亭、大下藤次郎らと参加し、第 1 回展から7回展まで出品した。
太平洋画会は、白馬会に対する明治の洋画界の二大流派である。つまり、明治40年の東京府勧業博覧会出品時には、庄野宗之亮はすでに名の通る画家の一人であった。
庄野伊甫の名で 1907 年第 1 回文展に入選し、その後も帝展(9 回展)、日展(8 回・10 回展)に入選。
のち故郷九州に帰り、大分県立日田中学の図画教師をした。1904年(第9巻3号)から 1908年(第11巻10号)にかけて俳句誌『ホトトギス』の裏表紙絵や図版を度々描いている。
下に掲げた図版からは、師事した浅井忠の影響がよく感じ取れる。
明治期の活躍に比して、今日、画集ではその作品を見ることがない画家の一人である。

庄野 宗之助 俳句誌「ホトトギス」挿絵 第11巻第10号 明治41年7月
庄野 宗之助 俳句誌「ホトトギス」挿絵 第11巻第1号 明治40年10月
※ 明治40年東京府勧業博覧会以前の作品
庄野 宗之助 俳句誌「ホトトギス」挿絵 第10巻第3号 明治39年12月
※ 明治40年東京府勧業博覧会以前の作品
庄野 宗之助 「早春」 油彩 「美術画報」第15巻第7号 1904年7月

■ 九里 四郎

東京府勧業博覧会には「白衣の女」を出品。
九里四郎は明治19年生まれ。富裕な階級の出身で、学習院に学び志賀直哉と親しい。東京美術学校西洋画科を卒業。白馬会に所属。明治40年の第1回文展で「霧の榛名野」が初入選、同41年の第2回文展には「蔵」が入選、3等賞、同43年第4回文展の「老人」(下に掲げたモノクロ図版)も3等賞と、青木繁には叶えられなかった白馬会系の模範画家の道(画家としての出世コース)を歩んだ。1911年(明治44年)には、ヨーロッパにも留学した。
下に掲げたモノクロ図版からわかるように、端正な写実の画風であったが、帰朝後は大づかみな描写に画風を変え、二科展に出品した。
白馬会系(=官展の主流派)の写実重視の俊才たちの中にあっては、似通ってしまう画風に満足できなくなったのであろう。

九里 四郎 「志賀直哉像」 油彩 制作年不詳 清治白樺美術館蔵
九里 四郎 「風景」 1907年12月 白馬会編 機関紙「光風」第三年第二号掲載の図版
九里 四郎 「老人」 油彩  第四回文展3等賞 明治43年
九里 四郎 「跪ける女」 明治42年の白馬会に出品

■ 海東 久 ( かいとう ひさし )

東京府勧業博覧会には「のこんの雪」を出品。
海東 久のプロフィールが記述されたものには探し当たらなかった。大正4年10月発行の図画集成「皇朝歴代鑑」がある。昭和戦前に至るまで活躍した画家となった。

海東 久「帰り行く農夫」 偕行社発行「満州事変絵画集」図版より 昭和10年
海東 久の挿絵 「皇朝歴代鑑」より 大正4年に出版

■ 萩生田 文太郎

東京府勧業博覧会には「夕暮」を出品。
萩生田文太郎のプロフィールが記述されたものには探し当たらなかった。
萩生田文太郎の名は今日見ることは少ないが、目に触れる機会として、アーティゾン美術館蔵に「湖」(油彩)がコレクションされている。
このところ、明治の風俗画や風景画が見直されているが、その中核をなす一人として、今後作品が発掘されるであろう画家と思う。

萩生田 文太郎 「騎兵隊の突擊」「日露戦争時事画報」第14号掲載図版 1904年10月
萩生田 文太郎 「野趣」『東京写真研究会画集』第6輯  1915年
※ 明治40年東京府勧業博覧会以前の作品
萩生田 文太郎 「早春」 油彩 明治37年 太平洋画会展出品
萩生田 文太郎の挿絵 「品海の小春」『諸名家スケッチ第一集 印象』 1910年

■ 山崎 清次郎

東京府勧業博覧会には「秋の暮」を出品。山崎清次郎については、プロフィールが記述されたものには探し当たらなかった。写実を核に据えた画風のようである。探し当たった作品を一点掲げる。

山崎 清次郎 「秋の夕暮」油彩 1904年7月「美術画報告」第15巻第7号掲載の図版

                                 令和4年7月     瀬戸風  凪



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