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ワタクシ流☆絵解き館その86 青木繁「天平時代」夢幻郷の風が吹いている。

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青木繁 「天平時代」 1904年  アーティゾン美術館蔵

タイトルの「天平時代」とは、とおりのいい言い方にすれば、奈良時代である。青木は何からインスピレーションを得、何にヒントを見つけてこの絵を描いたのだろうか。
先ず、奈良時代の美術作品を探ってみて気づくのは、そこから当時の風俗、暮らしぶり、生活様式などを構図化できないということだ。
奈良時代の代表的な二点の国宝絵画を下に示す。しかしこの二点とも、背景は樹があるばかりで簡素な構成であり、青木の「天平時代」につながるものは見出だせない。

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筆者の推定を結論から言うと、青木は、天平時代を時代考証的な視点で見ず、学んだ知識をさまざまに組み合わせて、構図を作ったということだ。
先ず背景の窓の部分からそれを探る。
斜め格子は、西洋文物のイメージが強い。浮かんだのは、西洋の文化を紹介した記事、書籍には必ず挙がってくるスペインのセビリア大聖堂だ。例に掲げた写真のような格子窓の様子を青木は、雑誌、書籍で見ていただろうと思う。

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縦格子の方は大和文化、もしくは中国大陸の文化を思わせる。代表的な例として、法隆寺の回廊の写真を掲げる。

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次に、背後の壁の板に描かれた絵を探る。
ここで、参考にしたいもう一枚の青木の絵がある。下に掲げた「天平婦人」(直方谷尾美術館蔵)という水彩画だ。油彩の「天平時代」と同じ着想と言える。

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この絵にも、壁板に何かが描かれているが、そのヒントになったものを考えてみた。それが下の図だ。青木が正倉院の宝物を、創作に使うために調べていたのはわかっている。
壁の絵は、富士と思われるような山の絵に見えるが、現時点では、奈良時代に富士が描かれていた記録はない。ともあれ山の姿という点で探ってみて、たどり着いたのが下に掲げた図柄である。
青木の見た正倉院宝物の資料の中に、この図柄があっただろうか。

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壁の下の方の図柄は、簡略過ぎてわからない。手がかりがないので、直感に頼り、シルエットの連想から浮かんで来たのは十牛図。最も有名な十牛図を例に掲げておく。十牛図は現在あまり目にすることはないが、明治時代後半においては、今より近しい絵だった。

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上で述べたように、天平時代の室内の様子を構想する際に、寄る辺は全くないのだから、青木は自由に思い浮かぶままに構想を練ったと言えるだろう。
「天平時代」の壁に描かれたものの考察に戻ろう。これもまた、見当がつかない。浮かんで来たものを、下の図に示した。

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次に、足元の浴槽とも人工の池とも見える水場と、あひるとも白鳥とも見える鳥の姿の組み合わせ。
先ず思い浮かべたのは、青木が非常に好きな画家だと言っているギュスターヴ・モローの絵だった。その作品群から「テスピオスの娘たち」(モロー美術館蔵)という絵を選び、下に掲げる。

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「天平時代」の鳥は置き物、装飾品として描いていると思う。モローの絵の方は、生きた白鳥だ。裸体の女たち、人造物である水場、そこに白く首の長い鳥を配した構図が作る雰囲気がよく似ている。
模倣と言うのではなく、モローの印象を、異なる光の幕を仕立てて投影しているようだ、と思う。

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青木の大きな特徴に挙げられるのは、作品ごとの印象がまるで異なるということだ。
「天平時代」からは、1904年という日露戦争の年にあって、青年たちが抱えていたであろう重い気分が微塵も感じられない。この時代の他の画家たちの多くの作品は、時代を映しこんだ沈む空気感を持っている。
帝国主義が現実を支配する明治という厳しい時代、国民全体に発酵する祖国愛に飲み込まれるように、青木は日本神話を題材に選び、日本人の原形、原風景に思いをつなげていたと思うのだが、描いた絵「天平時代」は、土俗的な色合いを帯びることなく、軽々と夢幻郷の風を吹かせている。
同年に青木は「海の幸」も描いている。両作品を並べてみれば、作品ごとの印象がまるで異なると、初めに述べたのがわかってもらえるだろう。
「天平時代」から眺めると、「海の幸」の理解は、窮屈なものに留まっているかもしれないと思えてくるほどだ。
                                                                                 令和3年12月 瀬戸風  凪

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