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ワタクシ流☆絵解き館その249 青木繁の「大穴牟知命」を導いた蒲原有明の詩
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撮影も著者 著者は有明の教え子
詩人蒲原有明は、明治36年、28歳で青木繁を識った。青木は年下の23歳である。その後、明治37年の白馬会に出品された青木の「海の幸」を見て驚嘆し、絵を題材にした詩を発表している。その詩は、青木の評伝にはしばしば引用される。「ワタクシ流☆絵解き館」の過去の記事でも紹介した。
蒲原有明は最も早い時期に、青木のただならぬ才能を見抜き、世に伝えるのに大きな貢献をした詩人と言える。
また明治38年7月刊行の詩集『春鳥集』の口絵を青木に依頼しているし、青木から、「海の幸」を購入してくれる者がいないか相談した書簡なども残っていて、相当親密な交わりを重ねていたことがわかる。
当然、青木は蒲原有明の刊行した詩集を買ったか、または譲り受けていたことであろう。青木もまた親友蒲原有明の詩からは大きな影響を受けた。有明の詩から大いなる閃きを得て、大作「大穴牟知命」を創作した ( であろう ) と推察できるところだ。
やや難解だが、名詩集の評価の高い明治36年5月刊行の「獨絃哀歌」に収まる二編の詩を下に掲げる。
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出雲風土記
蒲原有明
こころ愁ひあれば枳佐加比比賣 ( きさかひひめ )
涙もいと熱くひとり迷へり、
天なる神魂 ( かむむすび ) 御祖( みおや )をしのび、
暗き潮めぐる海の窟 ( いはや )に
嘆くとき聲 ( こゑ ) あり、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
愁ひに堪へかねて枳佐加比比賣、――
『あはれすべきかな、蒼海原の
あやしき調べ奏とる神こそ知らめ、
失せつる生弓箭 ( いくゆみや ) 浪やかくせる。』
この時聲はまた、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
いとも醜き魂は浪に動き、
大海原まさにどよみわたりて、
飄風 ( あらし )空より落ち、雲うち亂 ( みだ ) れ、
潮は火の如く渚に燃えぬ。
聲 ( こえ ) はまたこの時、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
『さはあれ、うるほへる胎の園生 (そのふ )
光の種子は裂け神の御裔 ( みすゑ ) と
生 ( あ )れまさむ吾が御子益荒男 ( ますらを ) ならば、
失せにし生弓箭 ( いくゆみや ) のあらはれ來こよ』と、
祷る時聲また、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
海しばし靜まり、浪より浪、
沖邊より磯邊に流るる弓箭。――
祈祷 ( いのり ) に伏し沈む枳佐加比比賣 ( きさかひひめ ) の
聖 (きよ )き精の宿りこの時ひらけ、
いみじき聲高く、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
嗚呼生れましにける佐太の御神、
猛くかたき光は海にかがやき、
浪よりあらはれし角の弓箭の
『こはわがものならじ去いねよ、』と詔 ( の )らす
御聲みこゑはくもりなく、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
海また平らぎて、浪より浪、
沖邊より磯邊に寄せ來る弓箭、
黄金の裝ひかがやき流れ、
高潮みだれうつ闇に映れど、
御聲 ( みこゑ) はまたさらに、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
嗚呼天の御裔 ( みすゑ ) の御子大神
この時浪間より流れいでける
黄金生弓 ( こがねいくゆみ ) たかく手握り持たし、
かがやく黄金御征矢 ( こがねみそや ) 弓筈 ( ゆはず ) につがひ、
窟戸 ( いはやど ) にたたして、――
『暗きかも、暗きかも、
嗚呼暗きかもこの窟。』
こころ歡びぬれば枳佐加比比賣、
吾が御子讃むる時弓絃 ( ゆづる ) 響きて、
征矢射通しゆけば天の香かあふれ、
大海華のごと飜へりけり。
さて御聲 (みこゑ)さはやかに、
『光あれ荒磯邊、
佐太大神 ( さだのおほかみ ) われたてり。』
📖 詩の解説
『出雲風土記』に記された枳佐加比比賣 ( きさかひひめ )の姿を主題にしている。枳佐加比比賣 ( きさかひひめ )は、赤貝が神格化された存在という伝承を持つ。青木繁の「大穴牟知命」では、両手を地につけた左側のヒメである。
天なる神魂 ( かむむすび ) 御祖( みおや )、とあるのは、父が神魂 ( かむむすび )ということだ。生弓箭 ( いくゆみや )は、の三種類の神器のひとつで生命の宿る弓矢である。
それが、枳佐加比比賣の出産の時失われていた。「ここは暗い岩穴である」と嘆き、枳佐加比売が「生まれようとしている御子が麻須羅神 ( ますらお ) のかみの御子ならば、失われた弓矢よ出てこい」と詔れば、弓矢が水の中から現れた。しかし「これは私の望む弓矢ではない」と投げ捨てた。すると次には波間より金の弓矢が流れ寄る。枳佐加比比賣はこれを取り、その弓をもって暗い岩穴に向かい矢を射ると、岩穴は黄金に光輝いた。
その岩穴は枳佐加比比賣の生んだ佐太大神の誕生地となり、枳佐加比比賣は佐太神社の御祭神「佐太大神」の母となったのだ。
その岩が現在に伝わる加賀の潜戸 ( 島根県松江市島根町加賀 ) である。
もう一編の詩を掲げる。
新鶯曲
蒲原有明
わが姉うぐひす、いかなれば
野を、また谷を慕ふ身と、
鳥に姿をかへにけむ、
緑は匂ふそのつばさ。
われは永劫 ( とこしへ ) 海の精、
きのふのむつみ身にしめて、
巖群 ( いはむら ) 渚おほ浪の
みだれに胸を洗はむか。
わが姉しばしふりかへり
北海寒き磯を見よ、
凍えて墜つる雲の下もと
ただあぢきなきこの恨。
われは悲愁 ( かなしみ ) つきがたく
沙 ( いさご ) に僵 ( た ) ふれ嘆くとき、
深きおもひもわたづみの
とよもしにこそかくれけれ。
わがあね、鶯、ほのかなる
ほほゑみほめて、世の人は
鳴く音しらべの汝がこゑに
愁ひ痛みも忘るべし。
われは迷へる海の精、
貝の殼からなる片葉もて、
きのふぞ二人大神に
捧げにけるを生藥 ( いくぐすり )、――
わが姉、鶯、なにすとて、
大虹ふかき彩に照る
殼のさかづきうちすてて、
すてて惜まぬ歌の聲 ( こゑ )。
われは今なほ海の精、
汝がゆくへをば思ひやり、
巖にのぼり、浪にぬれ、
夜もまた晝 ( ひる ) もかなしまむ。
鶯、鶯、わが姉よ、
春に遇ひたる樹間 ( このま ) より、
しばしは荒き遠海の
昔をしのびいでよかし。
われは朽ちゆく海の精、
なげきのこゑも消ゆるまを、
いよいよ春に時めきて
汝がしらべこそ清からめ。
📖 詩の解説
「新鶯曲」は、ウムガイヒメを主題にしている。青木の「大穴牟知命」では胸をはだけ乳房をつかんでいる右側のヒメである。
詩は、貝が法吉鳥 ( ホホキドリ )、つまり鶯になって飛んで行く様子を語っている。ウムガイヒメはハマグリを神体とする女神で、鳥がハマグリになったという伝承がこの詩の背景にある。詩は、海の精が、鳥になって飛び去ったウムガイヒメを述懐する形をとっている。
青木繁の「大穴牟知命」に直接の関わりがあるのは、
貝の殼からなる片葉もて、
きのふぞ二人大神に
捧げにけるを生藥 ( いくぐすり )
の詩行である。生藥とは、貝を削り乳液にして塗りつけて大穴牟知命を復活させたという『古事記』の記述に沿うもので、まさに「大穴牟知命」に描かれている場面である。
二人というのは、絵の左右の二人、キサガイヒメとウムガイヒメのことで、大神とは倒れ伏した大穴牟知命のことである。
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「大穴牟知命」は、青木存命中に、現在見る完成された形で、展覧会に出されたことはない。ただ、この絵の半完成状態のものが、明治38年の第10回白馬会には出品されている。
青木繁はこの当時、日本の古代の神話伝承に絵の題材を求めていた。現在残る作品としては、「黄泉比良坂」「日本武尊」「わだつみのいろこの宮」などがある。
明治38年8月5日付の蒲原有明 ( 隼雄 ) 宛書簡で、「只今制作中と候へども、来る九月までには成就ちとむつかしからんと存候。本年の展覧会には習作の外出品可致ものなし」とあるのは、「大穴牟知命」を描きかけであることを告げているのであろう。
書簡では蒲原の詩に着想を得たとは書いていないが、制作中であることを教えているのは、暗に ( 蒲原さん、あなたの詩に喚起されましたよ ) という気持ちが言外にあるように思う。
「大穴牟知命」は、蒲原有明の詩に感銘を受けたのが契機になり、改めて『古事記』のウムガイヒメ、キサガイヒメの記述を読み直して、独自の場面に構成したことが想像される。
令和5年11月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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