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ワタクシ流☆絵解き館その124 薄幸の俊才、池田快造が愛した風景―画家たちがやって来る場所⑤         


南薫造 絶筆「瀬戸内」1949年頃 所在不明 遺作画集(モノクロ図版)より

洋画の巨匠、南薫造が絶筆「瀬戸内」に描いた風景は、繰り返し、美術作品や観光産業の題材として選ばれ続けていることを探る、「画家たちがやって来る場所」シリーズ。
5回目となる今回は、南薫造よりは後に生まれているが、南薫造の「瀬戸内」と同じ眺望を、戦前に何度も描いた画家、池田快造の絵を紹介する。
池田快造(いけだかいぞう)は、明治44年―昭和19年。33歳で結核により没。南薫造と同じ広島県出身(南は当時の賀茂郡安浦町、池田は三原市)。美術学生のエリートコースであった東京美術学校在学中に、南が同校で教授として教鞭をとっていたので、師と生徒ながら、同郷人としての会話の中で、画題としての瀬戸内風景について池田が南に語ったことがあって、それが南の印象に残っていたのではないかという推理も成り立ちそうな気がする。
先ずは島の全景が描かれ、二人が見たのが同じ眺望だとわかる絵を下に掲げる。
島はデフォルメされているが絵の焦点は島に絞られており、陸地側の細部は簡素化されている。戦後(昭和24年)の気分を映した南薫造「瀬戸内」の長閑さとは異なり、池田快造の「島」は、戦争の時代(昭和16年)の不安な思いを示しているのか、激しい色彩が使われ、どういう関係性なのかも定かではない4人の人物が添えられている。

池田快造 「島」1941年(昭和16年)第28回光風会展出品 個人所蔵

池田快造は、短い生涯ながら有力美術団体の光風会に出品し続けた。感情表現を色彩にこめ、デフォルメを厭わない粗塗りの筆触に特徴がある。作品は個人所蔵のものが多いが、十数点、故郷三原市に所蔵されている。
上に掲げた「島」と同じ眺望の絵を以下に並べて掲げる。

池田快造 「島」1940年(昭和15年)個人所蔵
池田快造 「島・エスキース」1942年(昭和17年) 三原市所蔵
池田快造 「島・エスキース」制作年不詳 個人所蔵

池田快造の絶筆は、死の床で描いた自画像である(下の絵)。息は続かないけれど最期まで筆をとっていたいという執着が、押しつぶし、引っ掻いたような筆触に見て取れて痛ましくもある。

池田快造 「絶筆自画像」 1944年(昭和19年) 個人所蔵

池田快造が故郷の風景を繰り返し描いたのは、彼が結核により、人生の晩年の4年余りは、故郷で療養せざるを得なかったからである。しかし彼の画家としての本領はまた別の画境も見せている。
下の絵は、池田快造が29歳のときの制作で、代表作と目されている作品「天使」である。彼を知る手立てになるのでご紹介する。
この作品は、昭和15年に、文展を取りやめて、日本中の画家が一堂に出品する形で開催された「紀元二千六百年奉祝展」の出品作であるが、奉祝展の目的であった国威高揚とはむしろ逆のベクトルを思わせる、どこか厭戦的な気分があることに注目したい。

池田快造 「天使」 1940年(昭和15年) 三原市所蔵

先に述べたように、池田快造の絶筆は自画像であるが、ほぼまとまった形を見せる最後の作品は、死の前年昭和18年に描いた下に掲げる習作である。取材地は記録ではっきりしていて、南薫造絶筆「瀬戸内」とほぼ同じ地点に立って描いたと判断できる。
この習作の中央の大きな木は、南薫造絶筆「瀬戸内」では左右に描かれている実のなった八朔の木である。同じように池田快造の絵でも実をつけているところから判断して、冬の初頭から春先までの景色である。
つまりは、池田快造がこの習作を描いた6年後に南薫造が訪れて、偶然にも同じ眺望を描き、そして結果的に同県出身の二人の画家にとって、最後の制作の取材地になったという因縁につながっているのだ。
まさに、画家の魂の音を鳴らし、その最後の情熱を導き出す眺望と言えるだろう。

池田快造 習作 1943年(昭和18年) 三原市所蔵
風景写真 令和4年4月現在の眺望 
 南薫造 絶筆「瀬戸内」や、池田快造の諸作の制作地点より、高度は海岸部に近い

                                                                令和4年4月 瀬戸風  凪 


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