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ワタクシ流☆絵解き館その139 青木繁落選!第三回文展はどんな展覧会だった?

1909年、明治42年、第三回文展が開催され、帰郷していた青木繁は第一回文展での落選の屈辱を晴らすべく、乾坤一擲の意気込みで大作(131×98.6㎝)「秋聲」を出品する。
しかし再び落選。青木の名を世に知らしめた功績者で評論家の河北倫明氏は「この作品の不成功が、青木の転落を早めたと言えよう」と述べている。(集英社「現代日本美術全集7巻」解説)
今回は、その第三回文展で入賞、入選の作品は、どんなものだったかを追ってみた。よってこの記事は「タクシ流☆絵解き館その73 青木繁『秋聲』気づかれないその真価」の続編ということになる。併せて読んでいただければ幸いである。
なお、文展では一等賞は実質定められておらず、最高賞は二等賞だった。
最高賞の三人は、いずれもその後画壇で名を成した。

青木繁 「秋聲」 油彩 1908年 福岡市美術館蔵

文展開催に先立つ1907年の東京府勧業博覧会出品の、「わだつみのいろこの宮」が入賞末席を与えられただけだったり、第一回文展出品の「女の顔」「運命」が落選した理由について、「タクシ流☆絵解き館その70 第一回文展を振り返る」の中でこう述べた。
「(入選作は)審査委員の画家たちが、日本人による西洋画として、世に広めようとしていた絵がそのまま並べられていると言えるだろう。すなわち、迫真の、不自然さを与えない正確な写実、理屈でなく一見でわかる人物の情感、四季のたたずまいが与える趣や清涼感、そういった絵なのだ」
それは、第三回文展についても変わらない。
山本森之助、中澤弘光は黒田清輝主催の白馬会の模範的な弟子。追走者が群がり出たせいで、今日ではやや物足らなさも感じられる画風だが、清新さにあふれた写実の力量が光る。
吉田博は、誰も追随できないものさびしい抒情性の新版画で高い人気を誇る画家。「千古の雪」は油彩だが、初期からその特色は表れている。

石橋和訓(いしばしかずよし・わくんとも呼ぶ)の絵は、佳人読書の図、という当時流行りの画題の作品の中でも、とりわけシックでスマートな感覚が目立ったのだろう。
小林萬吾の絵は、当時洋画壇の二大勢力であった、浅井忠の脂派と黒田清輝の外光派の折衷的作品に見えてくる。萬吾その人は外光派の画家であるが。

中村彜(なかむらつね)の絵は、当時の画家を影響しつつあった印象派の筆致、感覚を、最もうまく咀嚼している点が選ばれた大きな理由ではないか。満谷国四郎の絵は、彼が審査員をしているところから、現在の言葉で言えば無鑑査入選といった、画家の名そのものが広告的な意味合いを持つ選考によるだろう。これ(「かぐや媛」)が選ばれるのなら、東京府勧業博覧会出品の「わだつみのいろこの宮」が、評価を得なかった意味がわからなく思えてくる。(青木びいきの言でしかないが…)

下の図版の入選作は、上に掲げた絵とは異質の、一般受けを狙っていない、やや奇想に傾いた作品だ。
これを見ると、時流におもねったと受け取られそうな「秋聲」のような作品ではなく、幻想主体の作品を出した方が、やはり青木の絵は個性的との評価を得たかもしれないと思えてくる。

冒頭で例に引いた河北倫明氏の「この作品(「秋聲」)の不成功が、青木の転落を早めたと言えよう」という評が再び浮かぶ。
(たとえ「秋聲」が入選していても、それだけのことでは、いったん見放された中央画壇へ返り咲くことは叶わないことだった)という言葉が裏に潜んでいるだろう。
上にずらりと並べた絵画は、ほとんどが公立美術館に収まっている。文展の入賞、入選作であるという価値が効いている、と判断できよう。世俗の権威として、文展入選というフラッグは、今日においても作品の価値を保証しているわけだ。
さらには、入選後も画家として作品を生み続けた者だけが、後世の評価を得るという事実がある。後が続かなかった画家の入選作やその他の作品は、実物はもちろん印刷画像であっても、たやすく目にすることが困難である。

                令和4年5月      瀬戸風 凪

■ご案内
この記事に興味を持たれた方へ。
この記事は「ワタクシ流☆絵解き館その70 時代から飛躍していた青木繁の絵―青木を落とした第一回文展を振り返る」の続編です。また「ワタクシ流☆絵解き館その73」他、青木作品の絵解き記事は、下のタグ「明治時代の絵」が入り口になっています。ぜひ読んでいただきたいと望みます。


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