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ワタクシ流☆絵解き館その170 媛御子(ひめみこ)のヌードは躊躇した「わだつみのいろこの宮」

上に掲げた「わだつみのいろこの宮」のデッサン下絵(上の絵の左図版)の豊玉姫の姿は、乳房を露出した半裸体と判断できる。乳房に手を添えているようにも見える。下の絵で、その輪郭を朱線でたどってみた。
ところが、完成作(上の絵の右図版)では、足元より他は肌の露出はない姿に大きく変更している。

つまり青木繁は、着想段階では、西洋の神話題材の絵に通常見られるのに倣って、女神=媛御子を半裸体で描こうと考えていたのだ。同じ時期、同じ発想をした画家がいる。
中村不折。その作品が、下に掲げた「建国剏業(けんこくそうぎょう)」だ。
奇しくもこの作品は「わだつみのいろこの宮」を出品した東京府勧業博覧会に同じく出品され、青木作品とは違い一等賞を受賞した。
右端に座る裸婦が天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、それを守護し、日本の建国した7人の男神たちも裸体で描かれている。

中村不折 「建国剏業(けんこくそうぎょう)」1907年 関東大震災で消失

しかしこの作品には、批判が湧き起こった。盗賊の群れのようにも見える男たちの中にいる、生々しい裸体の婦人の像が皇祖とは不敬、という批判だ。この絵の状況を理解せずに見れば、その見え方も、一蹴することは出来ないと思う。不折は受賞を辞退している。
当時は、西洋の神話題材の絵では女神が裸体であることに倣い、日本の神話に置き換えて描く芸術的意図を、世間の見方では、純粋に芸術的意図として受け入れるに至っていなかったわけだ。
青木が、もしも着想のままに、半裸体で豊玉姫を描いていたと考えれば、同様の批判を浴びたことだろう。中村不折の例から見て、山幸彦の裸体は許容できても、豊玉姫が半裸体では、「わだつみのいろこの宮」は、「古事記」神話の一場面として受け取られる以前の段階で、排除されていたのではないだろうか。結局青木は完成作品を描き上げる段階で、半裸体では奇矯な印象が強くなりすぎ、邪念を生じさせると思い直したのだろう。
それでは「わだつみのいろこの宮」の描かれた1907年当時、「古事記」世界の媛御子(ひめみこ)の装いを、他の芸術家はどう造形していたのか、それを探ってみた。

石井天風(林響) 1884年―1930年 が「古事記」主題の絵を描いている。
衣通姫(そとおりひめ)は、「古事記」には、允恭天皇(いんぎょうてんのう)皇女、軽大郎女(かるのおおいらつめ)として登場する。
「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫同様、ロングドレスふうだが、こちらはたっぷりと布地を使った造りで、曲線文様に彩られている。

石井天風(林響) 「衣通姫」雑誌「東亜の光/第2巻第6号」より 1907年

荒川 亀斎(あらかわ きさい)は1827年―1906年の彫刻家。下の二点の稲田姫は、ヤマタノオロチ神話に登場する姫。櫛稲田姫ともいう。
後世平安時代の十二単(じゅうにひとえ)が、念頭にあったのか?と思うような重層な装いだ。これに比べれば、「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫の方はまるで浴衣と言ってもいい。

荒川重之輔(亀斎) 「稲田姫之像」塑像 雑誌「東亜の光/第5巻第5号」より1910年
荒川亀斎 「櫛稲田姫木彫像」 明治26年に開催されたシカゴ万国博覧会の出品作

再び石井天風(林響)の絵。
木華開耶姫(このはなさくやひめ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘。 天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫にあたる神瓊杵尊(ににぎのみこと)に見初められる場面。飛鳥文化を連想させる装いだ。
青木は、「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫と侍女の装いを造形するに際して、いかにも貴人の装いと、誰もが抵抗なく受け入れる姿は選びたくなかったのだろう。
そして選んだ赤と白の対比が際立つ、簡素な、しかし妖艶さも併せ持つ羅の装いが、「わだつみのいろこの宮」を傑作絵画にしている大きな要素になったと思う。

石井天風(林響) 「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」 明治39年(1906)
絹・着彩 千葉県立美術館蔵

下の絵「霊泉」に描かれているのは、媛御子ではなく天女だが、やはり神話の中の女を描いている。透けたショールが、「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫の装いに通じ合う。
ただし、青木がこの絵を知っていたわけではない。神話の中の女性像造形として、やや艶めいた雰囲気は、媛御子ではなく、天女として描くのが、画家の通念であったのだろう。

石井林響(林響) 「霊泉」絹・着彩 明治39年(1906)個人蔵

青木の師黒田清輝の先輩画家、山本芳翠(やまもと ほうすい)が、青木繁「わだつみのいろこの宮」より15年前の明治25年に、七夕の織姫を描いた絵がある。
こちらは中国の神話の姫を題材にして、恋慕の情感を描き出した作品だ。明治25年という制作年を念頭に見れば、やや襟を開いた艶めいたポーズをあえて選んだであろうところに、山本芳翠の先駆性、開拓者魂を感じる。
しかしこの艶姿を描くのに、中国の神話を題材にしたのは、一種の「逃げ」でもあっただろう。この姿の舞台を日本神話に求めていれば、中村不折の「建国剏業」と同様の批判があったと考えられる。

山本 芳翠《『十二支』のうち「丑」『牽牛星』》油彩  1892年 三菱重工株式会社蔵

山本芳翠《『十二支』のうち「丑」『牽牛星』》では、セクシーさ=官能性が勝ちすぎていると思う。もちろん、それは失敗しているというのではない。
「わだつみのいろこの宮」が傑作たる所以は、艶めかしたポーズが、山幸彦にも豊玉姫にもないのに、また、着想段階にあった、豊玉姫の肌の露出という、感情を煽るような仕掛けを除いていながら、絵から受ける印象の大きな要素に、静謐な中に息づく官能性が挙げられる点にある。
半裸体も、重層な装いも含めた逡巡の末に決めたであろう「わだつみのいろこの宮」完成作の人物の装いは、絶妙な、類例のない独自境に達している。
                         令和4年8月   瀬戸風  凪



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