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ワタクシ流☆絵解き館その261 青木繁 その絵は描かれなかった!(のだろうか?)

🏳 帰郷により幻に終わった仕事

渾身の絵画「わだつみのいろこの宮」を、高く売る気でいた青木繁の目論見に反し、買い手はつかず、困窮生活は打開出来なかったのだが、その時期、まとまった画稿料が入るであろう仕事を受けていた。分類すれば挿絵の仕事になろうが、文芸雑誌「白百合」終刊号に、青木が描くはずだった書籍の発刊予告が載っている。
青木に予定されていたその仕事は、以下の内容だ。

■ 書籍名     前田林外月間詩集「沼の人」
■ 体裁      (シリーズとして出版 現在のムック本のようなものだ
          ろう)
■ 著者      前田林外(歌人・詩人)・青木繁 共著
■ 内容      前田林外の十幾編の新作民謡的詩篇に青木の新作の絵
          数葉を添える
          第一集  日本古民謡的絵画 ( 三色版  以下同じ)
          第二集  印度古民謡的絵画
          第三集  露国古民謡的絵画
          第四集  独逸古民謡的絵画
          第五集  スカンジナビア古民謡的絵画
■ 出版元     本郷書院 
■ 発刊予定    未定 1907 ( 明治40 ) 年5月以降
■ キャッチコピー 林外君の民謡軀詩と青木君の奇聳樸茂 ( きしょうぼく   
          も ) 及び凄霊幽奥 ( せいれいゆうおう ) の民謡的絵画

しかし青木はそれを履行せず、父の危篤の報を受けて久留米に帰郷したまま東京には戻らなかった。1907 ( 明治40 ) 年8月のことである。以後は、放浪生活に入り、結核を病んで29歳の生涯を終えた。
出版元は肩透かしをくったわけで、この書籍は結局発刊されなかった。青木が絵を描かなければ、成り立たない書籍だったのだ。
久留米からすぐに戻っていれば、出版元がやって来て催促するだろうから、手をつけていた仕事だったはずだ。描くことをいったんは引き受けていながら、幻に終わった青木の仕事である。

🏴 中断したもうひとつの仕事

同じように、青木が受けていた仕事を放棄した事例を、「ワタクシ流☆絵解き館その251 青木繁・知られていない風刺画の仕事を見る」で紹介した。一部を再掲する。

先ずは、1907 ( 明治40 ) 年、富強団刊の雑誌「世界之日本」の第3巻第1号に載った「社告」の一部を下に掲げる。次号からの青木繁の登場を告げている。青木を紹介する肩書は、新進神秘画大家となっている。
しかしながら青木の登場は、この大仰な社告に反して、第2号、第3号の2冊のみで終わっている。青木が久留米へ去ったことで、描き手を失ったのだろうし、何より雑誌の構成自体が第4号から大きく変わっていて、風刺画の頁も消えている。

「ワタクシ流☆絵解き館その251 青木繁・知られていない風刺画の仕事を見る」より
1907 ( 明治40 ) 年 雑誌「世界之日本」の第3巻第1号に載った「社告」

🌃 なぜ東京に戻って仕事を再開しなかったか

青木は、当時、一子幸彦ももうけた愛人福田たねとの仲が破綻寸前にあったとは言え、またいくばくかの借金を友人にしていたかもしれないが、東京に戻りたくても戻れない決定的な事情があったとは思えない。むしろ、東京に戻った方が、書籍「沼の人」なり、雑誌「世界之日本」なりの予定された仕事があったのだ。
それなのに、九州に留まって肖像画の注文を受けたり、悪く言えば、画家としての志を放擲したかと見える日銭稼ぎの画業にしがみついていた。
これを逆から考えれば、いったんは受けたものの、詩人の作品に添える挿絵とか、風刺画とかには興味を失っていたということだろう。「神秘画大家」「凄霊幽奥」といった形容で遇されることをよしとしない心境に至っていたのではないか。
「わだつみのいろこの宮」が、正当に評価されなかっことが、決定的に彼をうちのめしていたという他ないだろう。では描くべきは何か。その模索が重圧として彼にのしかかっていた。
かと言って、出版元の迷惑も顧みることもなく、約束も反故にするところは、それゆえ奔放な天才の一面と理解するわけだが、一般の社会人のモラルは失っていて、青木が画壇において世渡りができなかったことを如実に示している。

話を前田林外月間詩集「沼の人」に戻す。
前田林外は、青木の有力な理解者であった蒲原有明と交友があった詩人で、それを示す一例としては、青木が装丁意匠挿画を担当した蒲原有明の詩集「春鳥集」に、書翰として序文を載せている。

おそらく、この仕事が青木に来たのは、青木の経済的窮状をよく知る蒲原有明から助け舟を求められたか、青木の落胆ぶりを見て同情したかの理由で、林外がこの絵画詩集を企図し、青木の仕事を作ったという事情が裏にあるのではないだろうか。
ただ、蒲原有明ほどの青木への傾倒ぶりはなかったにせよ、青木の芸術観に共鳴はしていたと思える。林外の詩を読むと、青木絵画の詩情に通い合うものがあるのだ。

日高有隣堂刊 装丁意匠挿画青木繁 蒲原有明の「春鳥集」

参考に、明治39年6月 如山堂刊 前田林外「花妻」より、林外の詩の一部を引いておく。

 愛の屍
 五
 
    ひゞき白銀 (しろがね)、水 (みづ) は碧瑠璃(たまるり)、 
 椰樹 (やじゅ) の葉蔭に、ふとほとばしる、戀なればこそ。
 まなこ圓 (まろ) ばり、見れば畔 (ほとり) に、姫百合亂 (みだ)れ、さふ
 らん匂ふ。 
 あはれいづこぞ、理想 (おもひ) の 美 (うま) し国 (ぐに)。

明治39年6月 如山堂刊 前田林外「花妻」より

⏹ エスキース (草稿) はあったかもしれない

青木が契約を履行していれば、数十点の三色版の構想画が見られたであろうこの計画。実に惜しい。
しかしいや待てよ、という思いも湧く。まったく着手していなかったのか、という一抹の疑問があってもいいだろう。
むしろ構想の素描くらいはあったと考えるべきではないか。そう考えるひとつの根拠は、印度、独逸、露国、スカンジナビア、これらの国々について、上に挙げた雑誌、富強団刊の雑誌「世界之日本」にその風俗を風刺画で描いていることだ。久留米へ帰る直前の仕事である。 

1907 ( 明治40 ) 年6月 雑誌「世界之日本」第3巻第2号より 青木繁「音無シキカッフェー会議」

前田林外月間詩集「沼の人」の出版打ち合わせの際に、こんな図柄でと、青木はエスキースくらいは出版元に提示したに違いないと思う。むしろ日本、印度、独逸、露国、スカンジナビアという連作の主題は、林外からではなく、青木の発案であっただろうと思う。
出版元もそれを見て、雑誌での刊行予告に、この連作テーマを載せたはずだ。青木はこのエスキースを抱えて久留米へ帰郷しただろうか。そして、それは放浪の中で、売ったか、紛失したか、あるいは今さらと捨ててしまったか。

それもこれも、わずかに残る資料を元にした妄想に過ぎないわけだが、どういう心境だったのか。青木画業最大の謎とすべき事柄だが、久留米への帰郷を機に、それまでの主題がまるで憑き物であったかのように消え、描くべき絵の方向性が変わってしまい、取り掛かっていた仕事は、眼中から滑り落ちてしまったことは確かなのである。
              
               令和6年4月      瀬戸風  凪
                                                                                                setokaze nagi






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