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ワタクシ流☆絵解き館その70 時代から飛躍していた青木繁の絵―青木を落とした第一回文展を振り返る。

青木繁が傑作と自負していた「わだつみのいろこの宮」は、1907年開催の東京府勧業博覧会で三等賞末席という、失意の結果に終わったが、その落胆に追い打ちをかけるように、実父の危篤の知らせを受けて同年8月には故郷に帰らざるを得なくなる。
そのため同年10月より開催された、新進画家たちには待望の「第一回文部省美術展覧会」略して文展には、新作出品の制作時間をとれなかった。
そこで、故郷久留米から友人岩野泡鳴、森田恒友に依頼して、旧作二点を出品した。第一回文展に、自分の名を連ねたいという思いが強く働いたのだろう。
それが「運命」と「女の顔」だ。

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しかし、二点とも文展の展覧会場に並ぶことなく選外となった。今、筆者の手元に、「日展史1 文展編一」という本があるが、出品作の一覧には青木の名はない。
では、どんな絵が選ばれ、入賞したのかそれを見てみよう。
なお、最高賞に当たる二等賞は、和田三造「南風」で、この絵は現在国の重要文化財になっている名作だ。三等賞以下の作品で、画像の探せるものを掲げてみた。(残念ながらモノクロ図版でしか確認できないものもある)
審査委員は、画家では、黒田清輝、浅井忠、松岡寿、久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作、中村不折、小山正太郎、満谷国四郎らである。

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出品作を並べてみると、文展がどういう絵を求めていたかを感じ取ることができるのだ。審査委員の画家たちが、日本人による西洋画として、世に広めようとしていた絵がそのまま並べられていると言えるだろう。
すなわち、迫真の、不自然さを与えない正確な写実、理屈でなく一見でわかる人物の情感、四季のたたずまいが与える趣や清涼感、そういった絵なのだ。こういう絵をよしとする絵画観の中にあっては、青木の「運命」は、飛び抜けて異質な作品という他ない。「運命」のような画風の絵は、冒頭に記した「日展史1 文展編一」で探してみても、出品作91点の中には皆無だ。
この絵解きシリーズで述べてきたように、筆者は「運命」は青木画業の傑作の一枚だと思っているが、これを受け入れなかった文展の名だたる審査委員たちが、優れた審美眼(美術観)を備えていない凡愚の芸術家であったと結論できるはずもなかろう。1907年・明治40年という時期に、≪浪漫性≫というだけでは表現しきれない作品「運命」を正しく評価する目は、西洋絵画アカデミズムの、日本への移植を念頭に置いている審査委員には、持ち得なかったと言うべきだろう。
青木にすれば、これ以上手を加えれば、絵が死んでしまうという認識で筆を置いた絵だろうが、素人目には、描きかけに見えるであろうと判断されたはずだし、プロの画家であるがゆえに審査委員には、草案段階のエスキース(下絵)としてしか目に映らなかっただろう。
きっちりと描きこまれた完成画を対象とするのが、審査委員間の暗黙の条件であったろうし、国が大いなる意欲をもって開催主体となる官設展なのだから、日本人の西洋画の技巧も本場の絵に見劣りするものではない、と周知させたい意図が開催の意義としてあったわけで、観衆から何を描いたのかを問われかねない絵が外されるのは必然であっただろう。「女の顔」も、その暗黙の基準の段階で、適合しない絵であったと言える。
こういう風潮、官設展の持つ性格は、審査委員の顔ぶれを見れば、青木には充分に予見できていたはずだ。それを知った上で、あえて出した二点の絵。
青木の剛毅な性格からすれば、あるいは想定していたであろう落選という結果により、「文展何するものぞ」となりそうだが、このあと第三回文展に、ここに示した入賞作品に合わせるような画風の「秋聲(しゅうせい)」を出品する。「秋聲」を含め、九州に帰ってからの青木の絵が、前半生の絵に比して酷評されるような絵とは思わない。
それは、官設展で認められて、画壇での地位を得ることからしか画家の大成の道がなかった明治の時代状況を語る。天才青木繁にして、そこにこだわるしか画家の生き方を選べなかった事実が悲しい。
                                                                        
                    令和3年10月        瀬戸風 凪

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