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ワタクシ流☆絵解き館その218 詩集の挿絵、青木繁の「発作」と「わだつみのいろこの宮」

青木繁の風変わりなタイトルのデッサン「発作其一」「発作其二」は、岩野泡鳴詩集「夕潮」( 明治37年12月出版 ) の挿絵として描かれた。セピア一色で、「夕潮」に載った写真版の鮮明度は低い。泡鳴自ら詩集の挿絵用に青木に依頼した絵である。
渦巻きが何を表現しているのか、浮かぶ大小の珠は何なのか、さまざまな解釈が出来るだろう。これという決定的な答はない。
しかしこの絵は、渦が海底の様子を感じさせるものがあり、2年後に制作された「わだつみのいろこの宮」が連想されて来る。
「発作其一」「発作其二」を「わだつみのいろこの宮」制作の端緒とするには、両方の絵の制作年が開き過ぎていて、無理があるのは確かなことなのだが、青木の求めていた漠然とした魔力を秘めた女性像が、つながりを持って現れているとは言えるだろう。

■ 胸を隠すポーズのイメージをいろいろ試行していた

下の図版に見るように、1904年の「天平時代」、1905年の「発作其二」、同年の水彩「水浴」、そして1907年の「わだつみのいろこの宮」と続く流れの中で、女性が胸を隠すしぐさが続けて現れる。
その意味からは、「発作其二」の女性は、絵の姿として、「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫のごく初期のエスキース ( 草案 ) と言えないだろうか。
山幸彦から見ればこう見えるという角度で女性が描かれている。何か大事なものを抱えている様子であり、腰から下の構成は同じである。大きさはずいぶん違うが、足元から珠が真っすぐに登る様子は、「わだつみのいろこの宮」では、豊玉姫の体に添う水泡に形を変えているようでもある。

■ ゴッホの「星月夜」にも通ずる渦巻き

「発作其一」「発作其二」の珠は、想像をふくらませれば天体にも見えて来る。青木が当時、天文学に関心を持ったり、それを絵画化したような作例があるわけではない。しかしたとえば、日本では、青木自身は見ていないと思うが、青木没後に白樺派の営みにより、世に知られるようになったゴッホが「星月夜」で見せた、気流とも星明りとも見える渦と星( 天体 )のかがやき が共鳴するのを感じ取るのに似た感覚を、青木の幻想は持ち得ていたのかもしれないとも考える。
「発作」は《幻覚・幻想》という言葉になじむだろう。
青木と親しく交わった詩人蒲原有明は「《発作》は生命の発現であり、同時に生命の発芽であろう」と詩的言辞でこの絵を語っている。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「星月夜」1889年 油彩 ニューヨーク近代美術館蔵

ではもう一方の「発作其一」は、山幸彦のエスキースなのかと考えてみるが、こちらは裸体ということが最も似た要件で、それ以上のつながりは見いだせない。
しかし、素描の下絵まで遡れば、山幸彦は手を挙げた姿になっているから、その点に山幸彦の原型イメージを、「発作其一」に重ねることは出来るかもしれない。

画中の矢印は筆者が挿入 胸を覆う手のしぐさ

「わだつみのいろこの宮」では、豊玉姫の左手は見えていないが、胸を覆うように組まれているだろう。白い線で推定した。儀式的な意味でなく、恥じらいを表すしぐさと見たい。

「水浴」でも、半身裸体の女性が、胸を覆うしぐさである。

■ 女性のヌードを、どのように優雅に神秘的に描くかに関心があった

デッサン「発作其一」「発作其二」を描いた前年1904年の絵を見ると、やはり女性のヌード像が見られる。水彩の「春」にしても油彩の「天平時代」にしても、はたしてヌードがこの設定にふさわしいのかと思えるような場面だ。
実在の女性の裸体を描くという方法も、明治の後半にもなるとポピュラーであったが、青木は、その途を選ばす、幻想画の形で構想した画面の中に裸像を置いている。
おそらく青木はその方が、美しい女性像、裸婦像になると考えてのことだろう。

「天平時代」を見ていると、あまり成功しているとは言いがたいが、青木の絵としては珍しく官能性を主体に出していて、そこからはドミニク・アングルの有名な絵「トルコ風呂」の官能的であることを意識した場面が自然に連想されて来る。「トルコ風呂」は、当時すでに日本に紹介されていた絵だ。青木が意識していたかいないかは、記録もなくわからないが、学んでいるのではないだろうか。

青木繁 「春」水彩・パステル 紙 1904年 アーティゾン美術館蔵 
青木繁  「天平時代」 油彩 1904年 アーティゾン美術館蔵
ⓐとⒹ、ⓑとⒸに似たしぐさを感じる
裸の腕の線、横顔 

                    令和4年12月   瀬戸風   凪


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