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ワタクシ流☆絵解き館その233 南薫造の名作「六月の日」は、青木繁「海の幸」を照らし出す

⦿⦿ 南薫造が感じた「海の幸」の大いなる神秘

南薫造は、明治16年生まれで昭和25年まで生きたが、青木繁(1882年生まれ)との年齢差は、わずか1歳の年下にすぎない。ほぼ同時期に画家としてスタートしている。
青木繁の死 (28歳没) があまりに早すぎるのだ。その年齢の近さと南の為した画業の大きさを振り返れば、青木にもし幾ばくかの余命あらば、という思いがわく。
その南薫造は、明治37年 (南21歳) に第9回の白馬会展覧会を見て、鑑賞後の批評を書いている。そのとき見た青木の「海の幸」について述べているのを、2018年広島県立美術館紀要 同館学芸員の藤崎綾氏の論考「南薫造 美校・航海日記」から引用する。

「1904 (明治37) 年の白馬会展の内容が最も充実しているが、主題や構図、色彩などを丹念に観察し論評、中でも青木繁の《海の幸》に対する激賞が注目される。
ー 決して写実的で無い所に大ひなる神秘がこもって居る。 (中略) compotisionと絵の気持ち、意味は実に立派なものである ー
ー compotisionとしては場中第一否今迄の我国に無い程よいものと思ふ ー
という記述からは、鋭い批評がうかがわれるとともに、『本当を写す』『写生画』と、『自分の製作』である『絵』とは異なるものだとする、黒田の考えを理解したものと言っていいだろう。」

⦿⦿南薫造版「海の幸」は、いわば「陸の幸」を表現

「海の幸」が、若い南薫造の魂を揺さぶった絵であるのが伝わって来る。つまり、南薫造にとっては「海の幸」は特別な絵だったということだ。そこから、明治45年発表の南薫造の文展での出世作「六月の日」を眺めてみると、「海の幸」に対して「陸の幸」と言ってもいいような対照が見て取れる。
南の意識に、青木の絵「海の幸」が明滅していたと思うのだ。その証を以下図版によって示す。先ず作品そのもの、次に対応部分を挿入した図版を掲げる。

南薫造「六月の日」1912年 明治45年 第6回文展出品 東京国立近代美術館蔵
青木繁「海の幸」重要文化財 1904年 明治37年 油彩 アーティゾン美術館蔵
南薫造「六月の日」に「海の幸」の部分と指示№を挿入

 上向きの顔 曲げた腕
 収穫を得る手段、道具の銛と鎌
③ 銛と鎌を腋の下で抱え込んでいる姿
 獲物、収穫 ( 鮫・麦 ) を担いで運んでゆく姿
 獲物としての鮫と収穫物としての麦の束 だらりと長いフォルム
 吊り下げられた鮫と束ねられた麦の束
    獲物の鮫で隠れた足元と収穫の麦で隠れた足元

とくに、広大な麦畑の麦を、この鎌一丁で刈っているのは、「海の幸」の銛が、大海原の鮫を射止めてきた姿に重ね合わせた意図を感じる。
白馬会展の「海の幸」を見て詩人蒲原有明が、「自然の不壞にうまれしもののきほひ。すなどり人びとらが勁 (つよ ) き肩たゆまず、胸肉 ( むなじし ) 張りて足たらへる聲ぞ」と詩に書いたように、勝利の凱歌が響いている感覚をこの絵に接した人たちが持ったのだとしたら、南も、「六月の日」において、たくましく麦を刈り取って次々に束ねてゆく姿に、「海の幸」に響き合うような、大らかな凱歌を高鳴らせようとしたと見えて来る。
「六月の日」を見た感想として、ほら貝を吹き鳴らしているようだ、というものがあったと言う。それは、絵の気分が、そういう見方を誘ったと言えるだろう。
「海の幸」の背後の海原が、果てしないように、「六月の日」の麦畑も、どこまでも続き広がっているような感覚を与える画面の左半分である。

さらには、
◆ 「海の幸」の背景の金色 ( 現在は退色 ) に対し、「六月の日」の大きな部分を占める麦の黄色
◆ 両作に通づる褐色の肌と、水平線の見える海の青
◆ 両作に通づる吹き抜けてゆく海風の感覚

南薫造「六月の日」を一部加工 畝に斜線を挿入

「海の幸」が銛の作る長い斜線が、画面に立体感とリズムを与えているように、「六月の日」では、畑の畝の真っすぐな斜線が同様の働きをしている。

⦿⦿「六月の日」は浪漫主義絵画か

青木が、ラファエル前派、中でもバーン=ジョーンズの絵に強い影響を受けたのは広く知られているが、南にも、バーン=ジョーンズを模写した絵がある。また1904年 明治37年からの渡欧期間中には、ラファエル前派の絵を熱心に学んでいる。
南も若い日には、浪漫主義絵画に大いに傾いていたと言ってもいいのだ。

南薫造 バーン=ジョーンズ作「水車」模写 明治41年 1908年 郡山市立美術館蔵

「六月の日」は、一見、実際にある風景を写し取った絵に見えるが、南薫造記念館の人に聞くと、取材場所はどこかわかっていないという。南の生誕地、広島県の安浦周辺の風景らしく見えるが、私にはなじみのあるこの周辺の風景を思い浮かべてみても、ここだと思う場所が出て来ない。
浪漫主義絵画にあこがれを抱いていた当時の心情から推察すると、この絵は、「海の幸」を見た衝撃を南が述べた文にあるように、南をとりこにした「決して写実的で無い所に大ひなる神秘がこもって居る」ような雰囲気を自分の絵でも生み出すべく、脳裏にある風景を、再構成したものなのではないだろうか。

末尾に「ワタクシ流☆絵解き館その147」で述べた「六月の日」の鑑賞の一文を再掲する。
「南の二十代最後を飾る作品で、画面に満ち溢れているひかりと、渇望の甘露という労働への恩恵が主題なのだろうが、休息のひとときという情景を超えて、生命感そのものの時間の彫の深さが浮かび上がって来る。
《青春への惜別のうた》と形容したいような絵だと思う。あえて言えば、青木にとって「海の幸」に相当するのが、南にとっては「六月の日」と筆者は見ている」
                 令和5年6月                瀬戸風  凪
                           setokaze  nagi

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