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ワタクシ流☆絵解き館その188  最期の息に、青木繁を慕う歌を詠んだ歌人―安江不空①

渡津海のいろこの宮を描きたる青子 ( せいし ) の俤(おもかげ)いたづらに見ゆ

これは辞世の歌である。
昭和35年に81歳で亡くなった歌人、安江不空 ( やすえ ふくう)が詠んだ。死の病のベッドの上に臥しながら、赤いボールペンで短冊に書いた絶筆。青子とは青木繁のこと。《渡津海のいろこの宮》は青木の描いた「わだつみのいろこの宮」を示す。

いきいきし生きのちからをよそり持ち男の子のあとをのこさであらむや 
                                不空
いかるがや富の緒川のゆふかげにめでつつ行きぬ柿のもみぢ葉    不空

81年の長い月日を生き抜き、上の二首のような格調の高い、重厚な歌を詠んできた歌人にして、死の床での辞世の、文飾を捨てた平易さ、素朴さに驚く。
脳裏に浮かんで来るのは、若き日の青木との二人旅であったのだ。それほど不空の人生に強烈な印象を青木は残した。
不空の亡くなった昭和35年は、昭和42年に「海の幸」が、昭和44年に「わだつみのいろこの宮」が重要文化財に指定される今日の青木繁の評価への気運が明らかになりつつあった頃で、その青木と若い日に濃密な時間を共にしたことが誇らしかったのだろう。
自分が真っ先に評価した芸術をやっと世間が認めたと。

安江不空 日本美術院(岡倉天心門下)時代の自画像 葉書

安江不空とはどういう人か。
明治30年、東京美術学校に入学していて、明治33年に同校に入学して来た青木繁を知った。ただし、不空は日本画で岡倉天心に師事していたから、西洋画科の青木とは直接の交わりはない。
不空はこののち正岡子規の根岸短歌会に学び、明治大正昭和にわたり万葉調歌人として大きな存在となった。

安江不空「古丹波岳」 昭和12年 協和書院 原真由美著「歌集厳橿」の口絵

青木と同じくまだ貧しき書生であった不空が、白馬会展出品の「海の幸」で、話題をさらったものの絵は売れず、愛人福田たねの懐妊も件もあり、生活に行き詰まっていた青木の言動が異常の様相を呈しているという噂を聞いて、かねてより、絵のみならず短歌にも造詣の深い青木の教養や、描く作品に関心があったことから心を動かされたのであろうと思われるが、明治40年、青木を乞食行脚の旅に誘う。乞食行脚とは、旅先の人から物品や金銭の施しを受けて巡り歩く修行のことだ。両人とも二十代、若い。
不空は旅の発心を自筆年譜でこう述べている。
「この年暮春の頃釈元恭師等の勧めに拠り、行脚を思い立つ。もとより遊び半分の企てなりしも、清貧礼讃と試練の志ありしなり」
青木は、火熱で焙られるような生活から逃避したかったのだろう、思わぬ人からのこの誘いを受けた。
いかに貧しい旅であったかは、「清貧礼讃」という不空の発心の言から想像できる。

二人は土浦、筑波、下妻、下館などを巡り、二本松から東京に戻っている。不空は、教養面で青木と同様、同種の分野に通じていた。その行脚の間の会話が、旅の後で発酵して、青木に「わだつみのいろこの宮」を描かせることになったと不空は書いている。
大正7年、まだ青木の真価が世に広く知られていない頃の、その名が埋もれていることを嘆く熱い文章だ。下に示す。

青木が作れる「わだつみのいろこのみや」は、実に当時吾が一場の立談より、愕然として沈思より醒め、而してなれり。
彼を現代より進み過ぎて、容れられざりしものといふ、咄(とつ ※ 歯噛みする感じの詞)……なにものの痴漢ぞ、「原始」は彼の憧憬なり、数百年の古にかへつて、神人遊行、地上の生活以外を求めんとせしもの、自己の、祖先の偉力を知らず、過去を裁断されたるが如き浅人の知る処にあらざる也。
彼れと吾れとの霊的結合は茲にありし也。

大正7年「海松/第1巻第5号」中の安江不空短歌連作「乞食篇」より
ビゴー 1886年「日本スケッチ」より 「托鉢僧」

残念ながら、不空との旅においてと推定できる青木繁の絵は伝わっていない。青木には、制作のための旅と言うより、煮詰まった生活環境から離れて、気分一新を図るための、またこれから描く絵の主題を非日常の時間の中で見つけるための思索に重点があった日々だったのだろう。

長くなるため以下続篇へ。どうぞお付き合いください。                                      
                 令和4年10月  瀬戸風  凪


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