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ワタクシ流☆絵解き館その185 あはれ友よ ! 高島宇朗の青木繁画賛。

青木繁の友人、高島宇朗は、昭和29年に77歳で亡くなった人であるが、青木との関係においては、次のことで知られている。
1. 東京時代の青木と知り合い親しく交わって、青木を経済的に援助した同郷人
2. 青木の画業の最盛期となった明治36~37年の曙町時代の絵を、多く貰い受けていた
3. しかし、所蔵している絵を終生公開しなかった(多くを生涯私蔵していた)

同じく青木の友人であり援護者であった、坂本繁二郎や梅野満雄は、明治45年、青木の名を残さんと遺作展を計画した時、高島宇朗は上記の3、に挙げた行動に終始したことを後々までも怒っている。
二人にすれば、(お前も青木を愛するなら、作品を秘匿するなど、友にあるまじき行為だ)という気持だっただろう。
このときの宇朗の心中を洞察するのは簡単ではなかろう。青木作品を公開すれば、その所有権をめぐり青木遺族と悶着を起こすことが避けられず、それを忌避したという推測は、正しい見方であると思うが、そういう欲得がらみの思惑と周囲に思われても構わないという覚悟をしてでも、友情の証である友の絵を所蔵しておきたかったに違いない。
自分が持っているかぎり、青木の絵が散逸することはない、という自負が強くあったと推測できよう。やがて、欲得がらみで青木の絵が動いてゆくのを見通し、嫌悪したのだろうと筆者は思いたい。

宇朗は、禅僧として生き終生詩を書いた。そして晩年に至るまで哀悼・追慕とも言える詩を、ぽつりぽつりと発表した。そのいくつかを挙げる。
下の詩「青木繁油畫寂静賛」は、青木繁の詩のどの作品というのではなく、青木の油彩画業そのものを、讃えているのだろう。
この詩の制作年、昭和9年時点の青木繁の名は、中央画壇で発表した「海の幸」「わだつみのいろこの宮」などの余韻が静かに尾を引いているというべき知名度で、一部の美術愛好者に知られるにすぎなかった。宇朗はすでに仏門に入って久しい。
詩の意を読み下せば次のようになるだろう。

秋深い嶺に月が照っている。それは天壇に漂う美しい霞の香気と称してもいい。その澄明の中に、静かに寂しく息もなく、けれど絵画史に滅びることのない名を高く輝かせているのは、わが友青木繁の幽心であることよ。
青木死して23年が過ぎて思う亡き友のなつかしさ、作品を守り蔵しているゆえに、宇朗の心底にはありありと青木繁は在り続けたのだろう。

この詩からは、平安朝の歌人建礼門院右京大夫の次の名歌の水脈を引いているのを感じ取る。
「面影を心にこめてながむれば忍びがたくもすめる月かな」
                     『建礼門院右京大夫集』より

青木繁油畫寂静賛      詩・高島宇朗

秋 深き
峯 に
月 照る
天壇の
紫氳(しうん) の
たたへ
澄明 に
噫氣(いき) を
沈め て
寂静(じょうじゃく) に
安ら
高處(たかお)る
あはれ 友
青木繁 が
幽心 よ
            昭和9年7月5日午後3時25分音坡僂上作

昭和63年 創芸出版 高島宇朗著「止息滅盡三昧 詩」より

昭和16年8月発行の「みづゑ442号」の、「青木繁畫 無背窟蔵品附説」という記事の中で、この絵「丘の路」は紹介掲載されていて、宇朗の次のコメントがついている。「非常に活発な、色鉛筆の、黄勝ちな荒描きである。」
そして賛として下の詩「青木繁黄日賛」が載っている。
宇朗がこの絵を青木から受け取ったのは、東京で親しくしていた明治37年頃であろう。詩の制作は昭和10年だ。その間、宇朗は転々と住居を変えているが、大事に素描を持っていたことを示している。

青木繁 素描「丘の路」 高島宇朗所蔵品 鉛筆・紙 昭和16年8月「みづゑ442号」掲載図版

青木繁黄日賛      詩・高島宇朗

ほつ ほつ と
人 と
馬 と 
車 と
空の 雲槐(くもくれ)と
みすずかる 信濃路 の
丘 を
ゆき ゆく
黄日 の
悠途 の おもい
              昭和10年10月2日前2時5分鶉岡床中作

昭和63年 創芸出版 高島宇朗著「止息滅盡三昧 詩」より

下の絵「少女群舞」は、「みづゑ442号」の「青木繁畫 無背窟蔵品附説」の中で、青木が今描いたばかりだと、宇朗のところへ持ち込んで、そのまま置いて帰ったと述懐している。
明治37年の春のことである。青木の感受性、想像力が漲っていた時期だ。その年の夏、青木は房州布良へゆく。
この絵を受け取った時、宇朗はこの絵を「早春」と題した。青木もそれでよいとしただろうか。その賛が、下の詩「青木繁畫早春に題す」である。受け取ってから、33年の歳月を経ている。
詩の意を下のように汲み取ってみた。亡き友への追慕懐旧の情が見えて来る。筆者には、万葉集中の絶唱、
「君に恋ひいたも術なみ平山の小松が下に立ち嘆くかも」笠女郎 
が浮かんで来る。

あの日自分(宇朗)に一番に見せようと、描いたばかりの絵を抱えてやって来た無二の友は逝いて久しい。もらった絵は、今も乙女らの舞い上がる命の、あるいは地に咲く菜の花のかがやきをとらえて、この絵の中に留まっているのに、その友は、はるか届かぬ天の光。なんとさびしいことだろう。

青木繁 「少女群舞」  高島宇朗旧蔵 明治37年(1904年)板、油彩 現在府中市美術館蔵

青木繁畫早春に題す      詩・高島宇朗

春 浅き
そのかみ の
早稲田たんぼ に

吹き はしる
風 の 如く に

舞ひ あがる 
わかき こころ を
をとめら が 
袖 の 
流れ の
ふり ながく

いのち より
ひさ に
とらへ て
とめ おき し
わが 友 は
来り し 天(あま) の
光り 空

いづこ か
ゆき し

地 に
ひくく
菜の花
黄ばみ

日 の
かがよひ の
まだ うすく 
冷か なる に
            昭和12年5月22日睡起午後1時半杲洞作

昭和63年 創芸出版 高島宇朗著「止息滅盡三昧 詩」より

次に掲げた詩「青木繁畫針を貫く婆子賛」はむつかしい。非力ながら、詩の意を読み下せば次のようになるだろう。
窓近く弱い灯りの下で、おばあさんが神経を集中させて、ほんの小さな針穴をじっと見つめて糸を通し、一日中、縫物に余念がない。針穴と言うさながら仏眼に、ひたに糸を通してその急ぐことのない静寂に、劫波―永劫の時間が生まれている。
煩悩(ぼんのう)の幻影は、その間にも開き、消え、人はそこから離れることは出来ないわけだけれど、誰と何を争うでもないなりわいである。あわあわとして、何の非難立てがいることだろうか。

宇朗の示した、青木繁の絵「針を貫く婆子」は、不明である。宇朗の所蔵品を解説した「みづゑ442号」の掲載図版にも載っていない。

青木繁畫針を貫く婆子賛      詩・高島宇朗

餘念 なき
窗(まど) の
小明かり

一心 を
雙手(もろて)の 指 に
指頭 の
針 の 耳穴
みえがて の
微鋩(びぼう) の あたり

佛 の 瞳子(ひとみ)
絲(いと) に 貫く
婆子 が
日ぐらし
遅々 と し て
白地 なる
劫波(ごうは) は 運 じ

空 の 華
かたはら に
ひらき おち たり
きゆれ ども

あらそはず
無一物 なる
すぎはひ よ
簡淡 に し て
とがめ なし
            昭和15年12月12日前7時10分眼城心室床頭作

昭和63年 創芸出版 高島宇朗著「止息滅盡三昧 詩」より

上の詩に最も雰囲気が近いのが、「青木繁畫無背窟蔵品附説」に掲載図版の素描「待てる女」だろうか。
宇朗は、「山地の小驛かなんぞで、側に荷物を置いて時待ちせる女である。所謂生活苦など千里万里外、駘蕩たる桃源郷裏春日の風光を擔(※担に同じ)頭し来たれるもの。わが青木に亦如平和穏座地ありしを看取るの作」とコメントを付している。

青木繁 素描「待てる女」 明治33年夏 帳中 鉛筆  高島宇朗所蔵品 
昭和16年8月「みづゑ442号」掲載図版

下の詩「青木畫武蔵野不二賛」のタイトルになっている、青木の絵「武蔵野不二」も不明だ。青木は、こんな風景とともに富士を眺めたかもしれないと思う素描「田園帰路」を添える。この絵の取材地は記載がない。
この絵の制作年は、明治33年、青木が東京美術学校の学生だった頃で、その頃描き貯めた素描のひととおりを、青木は気脈を通じた宇朗に預けたか、請われて渡したかして、宇朗の所有する処となったのであろう。
青木のその後の暮らしぶりと、描いたものの保管に気を配らない彼の生き方からして、宇朗が所有しなければ、初期の素描は散逸していた可能性が高いと思う。
もし、房州布良で多く描いたというスケッチを、青木が宇朗に渡していれば、「海の幸」を描いた高揚の日々の、その直後からすでに行方の知れない素描群を、きっと見ることができたはずと惜しまれる。

青木繁 素描「田園帰路」 明治33年夏 高島宇朗所蔵品 鉛筆・インク 紙
昭和16年8月「みづゑ442号」掲載図版

青木畫武蔵野不二賛       詩・高島宇朗

むさし野 の
そぞろあるき に
日 の
落ち て
弧雲 照る
西空 の
不二 を
見いで し
わかき わが
去(い)にし
うらぶれ
              昭和26年1月5日夜11時半前横牀作

昭和63年 創芸出版 高島宇朗著「止息滅盡三昧 詩」より

                                                                        令和4年10月   瀬戸風  凪



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