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ワタクシ流☆絵解き館その172 青木繁の、姿を消したいくつかの作品。

下の絵は、1905年(明治38年)2月発行の雑誌「白百合」第2巻第4号に載った青木繁「佛陀時代の幻影」という絵。モノクロ図版しかない。
この絵については以下の逸話がある。1907年(明治40年)の東京府勧業博覧会のときの話だ。
1944年発行「美術研究/第138号 河北倫明《青木繁の生涯》」より要点部分を引用する。

 博覧会美術審査部の監査は、いよいよ三月十三日より開始され、同十六日
 までに終了した。(中略)明治40年3月5日の美術新報によれば、この審査
 の際には青木は未だ大作ならず、「印度神話」(※「佛陀時代の幻影」のこ
 と)と題する油絵を出品し、それが入選したように解せられる。
 しかるに三月二十日、青木が真岡の町から東京七面坂にあった友人安藤東
 一郎にあてた書簡によると、「わだつみのいろこの宮」がようやく完成し
 た旨を報じ、これを出品するにはいかが手続すべきやを尋ねてきているの
 であるが、この間の事情は明白でなく、安藤氏もまた記憶せられない。
 おそらく青木は一度「印度神話」を出しておいて、開会後上京した上で、
 陳列作を取りかえたものとすべきであろうか。

予備審査を通った作品を、あとで取り換えるというのも妙な話だが、そういうことだったわけで、つまりこの「佛陀時代の幻影」実作は、一度は、黒田清輝、小山正太郎、久米桂一郎、岡田三郎助ら審査官の眼に触れている。この作品は、大作にするつもりがあって描いた下絵の性格を持つことが、引用した文章の注に説明されている。
しかしその後どこへ行ってしまったのか、現在、所在不明である。

1905年(明治38年)2月発行の「白百合」第2巻第4号に載った図版 青木繁「佛陀時代の幻影

灌仏会―花祭りともいう仏教の行事がある。釈迦の誕生を祝う儀式だ。そういう何かの儀式が行われている様子に見える。佛陀時代、というのもあいまいな概念だ。
しかし、書物や、仏画などから得た知識によって、思い浮かべた画面であるはずだ。
東京府勧業博覧会では、「わだつみのいろこの宮」は異色作として巷間話題にはなったのだから、その余栄で「仏陀時代の幻影」を相当な値で売ることはできたのではないか。青木はこの絵を売って、その後所有者が変転したか、あるいはそのまま埋もれているか。その後の東京を襲った震災、戦災をくぐりぬけたかどうか。
すでに、120年に近い歳月を経ている。しかし度々、絵解き記事の題材としてきた青木の代表作のひとつ「大穴牟知命」も、かつては所在不明の絵だった。世に出て来る可能性に期待したい!

その他の絵でタイトルは記録されているが、九州に帰ってから制作した小品と思われる所在不明の絵のタイトルを下に挙げる。
これらの絵は、1910年、明治43年に佐賀の曙旅館で開いた画会(売り立て会)に陳列された記録があり、以後所在不明。作品はほとんど売れたと伝わっている。
  「天平婦人乱舞図」
  「水郷」
  「神野公園」
  「佐賀城の蓮」
  「湯呑」
  「明治の女」
  「無題」

それらがどんな絵だった、それを知るよすがとして、この画会に出て、今日に伝わっている絵が相当ある中から、いくつか例に掲げよう。

青木繁 「筑後風景」 1910年(明治43年) 油彩  河村美術館蔵
青木繁  「春郊」 1909年―1910年頃(明治42年―43年)頃 油彩
青木繁 「橋のある風景」 1910年(明治43年) 淡彩素描

とはいえ、青木作品の発掘は止まっているわけではない。年々現存作品リストが書き改められているようだ。今日、どの画家にもまして、鵜の目鷹の目で青木作品探しは続けられているだろう。
金目になる探し物は、きっと出て来るという気もする。動機はどうあれ、結果を歓迎したい。
タイトルの記録もないが、青木20歳から22歳にかけて「海の幸」を描く直前の時期の、浪漫的情緒で描かれた作品も必ず埋もれているはずだ。
              
                         令和4年8月      瀬戸風  凪



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