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ワタクシ流☆絵解き館その239 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ⑤ 変転 

「青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ④」からの続きです。

■  二女、高島満兎 (まと) の非業の死

高島宇朗の二女満兎 ( まと ) が、「ほんとうにいい兄貴だったのよ」と友人に語った兄、日朗 ( じつろう ) の手助けによって、結核療養途中の病院からタクシーを利用して抜け出し、日本共産党青同盟の活動に戻ったのは、1932 ( 昭和7) 年の早春のこと。

画・内橋洪三「拘束」 1931(昭和6)年刊『日本プロレタリア美術集』より 

その兄日朗は、それから間もなく、1932 ( 昭和7) 年3月10日、急性肺炎で急死する。日朗もまた、両親に迷惑が及ぶことを慮っていたであろう。実家からは離れて暮らしていたが、警察の監視は続いていたはずだ。
潜伏活動中の無理な生活と、仮出所後、療養が必要なほどだった服役中 ( 不敬罪による刑 ) の生活が身体を蝕む遠因になった死であっただろう。
結局、鹿児島刑務所からの仮出所後、東京に出て来た日朗が東京に満兎とともにいたのは、半年にすぎなかった。

満兎は同年、日本共産党への入党が認められた。検挙をたくみに逃れて、日本共産党青同盟の東京市委員会で共青再建のために奔走。共産青年同盟のポスターを作って街頭に貼ったり、「帝国主義戦争絶対反対」と書いたビラをまくなどして、昭和5年当時で4万部を発行していた機関紙「無産青年」の読者網の組織化活動に取り組んだ。
当時はこんなビラまきでさえ、捕まれば拷問が待つ命がけの行動であったと、『革命と青春 : 戦前共産党員の群像」( 新日本出版社刊 1985.7 )で、著者山岸一章氏は述べている。
繰り返される検挙の手から逃れ続けていたのだが、1933 ( 昭和8) 年3月、午前一時という真夜中を狙って、特高が満兎の居所に踏み込む。部屋には他に二人の同士がいた。満兎は、寝巻のまま二階の窓から飛び降りたが、刑事が開けっ放しにしていた塀の戸にぶつかり、そのあおりで地上に打ちつけられた。落下の衝撃は致命的で、骨盤を砕き脊髄損傷。下半身を動かすこともできない重態の身になった。一時、数日でなくなったという噂が、同士の間で流れている。

画・朝野方夫 全農大会ポスター  1931(昭和6)年刊『日本プロレタリア美術集』より

満兎は、急遽運ばれた市立病院で入院を拒まれている。特高の検挙からの逃走を図って負傷した者への世間の対応はそういうものであったのだ。満兎の母が駆けつけ、たまたま東大病院分院の外科部長が、自分の実家で育った人であった縁から頼んで、どうにか同院へ入院することが叶ったのがわずかな僥倖だった。
しかし長くは病院にもいられない。母きくの看病のもと、自宅での寝たきりの生活が一年余り続き、1934 ( 昭和9)年7月13日に、ついに24歳9ヵ月の若過ぎる命を終えている。寝たきりの療養生活にあっても、満兎を危険人物と見る特高の監視が、身辺にあったであろうと想像できる。
満兎が発行に全霊を注いだ「無産青年」も、編集者の検挙が続き、1933 ( 昭和8) 年11月発行の第149号をもって発刊停止となった。

最初の検挙の際には、学生時代の友人を頼って満兎の釈放に尽力した父、高島宇朗も、半身不随の子に対してはなす術もない。また、世間では僧侶の扱いは受けながら、当時の通念から言えば、( とんでもない息子と娘 ) の親として、当然、家庭事情を知る世間からは冷たい視線で見られたであろう。
息子の入獄、仮出獄後の急死、娘の特高検挙からの逃走、大怪我、寝たきりの果ての死という、次から次への、親としてはいたたまれないはずの出来事について語った宇朗の文章は、世に憚ることがなくなったであろう戦後においても見つけられない。その黙して語らずの姿勢は、よほどの傷心を語るものではないだろうか。

そんな苦難続きの歳月の中で、1933 ( 昭和8)年10月6日には、司法省出仕の田場川廣記に嫁いだ長女斐都子の男児出産により初孫を授かり、1935 ( 昭和10 ) 年1月1日には、同じく斐都子の女児出産という喜びもあった。
また、以前の記事で、弟で高島家戸主賢太を相手取った、先代 ( 父 ) と賢太との契約書は偽造だとする「不動産所有権取得登記抹消」の訴訟の和解が、昭和7年5月に福岡地裁 ( 二審 ) で成立し、賢太が宇朗に「三千圓ヲ支払フ」ことになったことを述べたが、この現在価で800~900万円の金は、当然、娘満兎の療養費に向けられたことであろう。

■  自らへの慰め ー 青木繁への果てぬ追慕

満兎を非業の事故により失った1934 ( 昭和9)年の年末、宇朗の心弱りを示すかのように見える一編の詩がある。今は亡き旧友と短い月日を過ごした久留米時代のはるかな記憶に、自らを慰めていたのかもしれない。どこに発表するという当てもない詩作である。宇朗生前最後の詩集『虎斑集』に載る。
なお詩集『虎斑集』は、後年、余命を悟った宇朗が長女斐都子に、最後の頼みとして私家版の出版を望んで、没した年に叶った詩集である。

青木繁追想            昭和9年12月29日未明作詩 
                 詩集『虎斑集』より

高島さん 
居ますかあと
晴れた午後
庭の方から 
笑みながら
やって来る
青木繁であった
夜半過ぎ
三時 四時
夜明けまで
主人なるわれをねせず
語り 飽き 突っ立ちあがり
畳蹴り 手を打ちたたき 
豪放不覚
世と相容れぬ憑零の
いかにともする能わざる
さびしさを
かきちらさむ
久留米なる
東中野の
森の屋内をとどろかし
おどりまわりて
青木繁が秋痩せの
浴衣着姿
眼に見る如し
                            令和5年8月  瀬戸風  凪
                                                                                              setokaze nagi








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