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ワタクシ流☆絵解き館その234 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ④ 感懐

「青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ③」からの続きです。

◆ 久留米出郷 東京へと居を移す

高島宇朗は、臨済宗妙心寺派、久留米梅林寺の東海猷禅玄達禅師から、道琥 ( どうごう ) 通達居士の名をもらい、みずから無背窟 ( むはいくつ ) と称した。正業は僧侶となったわけだ。
しかし、事情ははっきりしないが、昭和4年頃には久留米を出て、東京に移住しているように思われる。( 時期は推測 ) 家業の傾きから派生した経済事情が背景にあると思われるが、詩人、執筆者であり続けたいという野心がまだあって、東京を選ばせたのかもしれない。あるいは下段で述べる息子、日郎 ( じつろう ) の行動が影響した出郷なのかもしれず、出郷の理由は推察するしかない。
宇朗の詩を読んでみると、青木繁と過ごした時代の久留米は、なつかしんで追慕しているが、漠然と故郷久留米について叙述したものは見当たらない。
愛憎半ばする故郷であったのだろう。
青木繁の作品について書いたり、一部を展覧したりするのはさらに後年なので、青木作品も、またおそらく手元に置いていたと思われる弟高島野十郎の初期作品も、すべて携えて移動の出郷であった。

昭和5年には、雑司ヶ谷高田豊川町に新居を得ている。
また、評価はさほどではなったとはいえ、詩集も出版して世に名も出ており、その学識を知られていたのだろう。調和道協会発行の雑誌『調和』への連載執筆も行うようになった。

前回の記事では、弟で高島家戸主賢太を相手取った、先代 ( 父 ) と賢太との契約書は偽造だとする「不動産所有権取得登記抹消」の訴訟の和解が、昭和7年5月に福岡地裁 ( 二審 ) で、成立し、賢太が宇朗に「三千圓ヲ支払フ」ことになったことを述べた。この現在価で800~900万円の金は、当面の生活費の基盤となったであろう。

◆ 長男日朗の検挙・入獄・そして急逝

しかしこの訴訟の和解が成立する直前、高島宇朗の身には重大なことが生じていた。昭和7年3月、長男の日郎 ( じつろう ) が24歳で急逝している。
日朗は、旧制中学卒業後、1926年 ( 大正15年 ) 結成された労働農民党に属して、久留米を中心に、社会主義活動に身を投じていた。
日本農民組合主事楠元芳武氏の裁判判決書に、昭和3年の2、3月頃に福岡県下で、当時秘密結社で弾圧対象であった日本共産党入党勧誘を目的とした赤旗中央版を受け取った者の名の中に、高島日朗の名が出ている。日本農民組合の掲げた主張のいくつかは、次のことがらである。
耕地の社会化、耕地の不買同盟、小作料の合理化、小作料の確率を基調とする小作法の制定、農業労働者の最低賃金及び労働時間の制定、地主及び工業資本家の利益を擁護し、農民生活を窮迫する租税の廃止、無産農民教育制度の確立など。この実現には、究極的には社会革命を必然とするはずだ。
同組合への断続的な圧力により、分裂集合を余儀なくされた結果、左翼系である日本農民組合福佐連合会に属し、久留米出張所書記に1928 ( 昭和3 )年 5月1日、任命される。しかし、1928(昭和3)年の治安維持法改正で、農民組合活動への監視はいっそう厳しくなっていた。

日本農民組合出版部「日本農民組合パンフレット第7編」より 大正15年

リーダーのひとりであった日朗は、引き続く検挙をたくみに逃れていたが、昭和4年4月16日、治安維持法違反として共産党員全国的大検挙があり、ついに検挙される。この頃の中央の政治情勢に目を向けると、治安維持法の反対演説をした山本宣治議員が刺殺されたのが、前年の昭和3年3月5日のことである。 
そしてこの留置の際、日朗は板壁に『労働者、農民を苦しめる天皇制を打倒せよ!』と書き、その天皇制誹謗の言動から、長崎高裁により、当時存在した法律である不敬罪で2年の刑となって、鹿児島刑務所に収監される。政治的意図を持った確信的な行為だったであろう。天皇制否定で人々を扇動するのはこの時代、重罪であった。
旧刑法第117条に「天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所為アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス」とあった。

やがて昭和6年初夏、仮出獄。
この仮出獄は、本人がいわゆる転向の意志を見せたからなのか。久留米では名家の高島本家筋からの働きかけは、上に述べた兄弟間の訴訟のさなかでもあり、おそらく親戚交わりを絶っていたであろうと思われるので、なかったと見るのが妥当だが、いずれにしても仮出獄を可能にする何かの力が作用したのは間違いないだろう。
鹿児島刑務所を仮出獄した日朗は東京に出た。長姉の斐都が東京駅に迎えにゆくと、刑事が尾行していた。しばらくは宇朗のもとで療養し、家を出て一人暮らしを始めた。全共一般労組の活動をしていたが、翌年、昭和7年3月10日、急性肺炎で急逝。享年24歳7か月。
後述する地下活動中の妹、満兎 ( まと )は、所在がわからず慕っていた兄の死に目には会えなかった。

◆ 親孝行について語った韜晦な一文「感懐」

この間の宇朗の心境をうかがわせる文章がある。
日朗が検挙された直後、昭和4年の6月、調和道協会発行の雑誌『調和/6月号』に、宇朗はそれまで同誌に連載していた記事『仏典寓話』を取りやめて、代わりに《感懐》と題して一文を発表している。3年後の日朗の先立ちを予見したかのような文章である。長文なので一部を抜粋する。

調和道協会発行の雑誌『調和/昭和4年6月号』目次と編集後記 部分

「或る者曰く、『よく親には孝行をしなくてはならぬとの語を聞くも、自分は何も好みて子に生まれたるには非ずや、しかるに親に孝行せよと云ふは甚だ腑に落ちず。而かも自分が生まれ出でたることにて幸福を享け、安楽な境界に身を置くならばいざ知らず、斯く日夜生活のために追われつゝありて何の孝行ぞ ( 中略 ) 』噫 ( ああ )、何たる痴語ぞ。親はこの言を聞きてい如何なる心境すらむ。」
「親の恩の有難さは、子を持ちてぞ知るとは云へど、子を持ちて、その子が親に先立ちて死にたるとき、より以上痛切に知らる。とある人云ひけるがさもありなん。烈士の親に対する心情涙ぐましきものあり。
親思ふ心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらん   吉田松陰
麻縄にかかる身よりも子を思ふ親の心をとくよしもがな  渡邊崋山
嘆かるる身よりも嘆く老いの身の嘆きこそすれ嘆かるゝ身は  高野長英
以上は子より親に対しての事が主にて、親より子に対する願望等は今の所論に非ず。なほ書きたきことは種種あれど都合にて止む。
會子三省して曰く『己の習熟せざる人を伝授せざりしや』と、己も省て孝行等の大問題を軽々と筆にするの任に非ざるを思ひ、慙愧に耐えざれど、かかる不文も或るいは他山の石とならざるにあらざらんと斯くはものしつ。」

上の文意を読み解くとき、「烈士の親に対する心情涙ぐましきものあり」として著名な歌を並べているのは、日朗から、これらの歌に通ずるような思いを切々と綴った書簡を、宇朗が受け取っていたかもしれないことを想像させる。
「親より子に対する願望等は今の所論に非ず」とは、逆に言えば、息子 ( 日朗 ) に親として願いたいことはあるが、今それを公けにするべきではない、逆に息子の気持ちを波立たせるだけだろうという思いだと推察できる。
「なほ書きたきことは種種あれど都合にて止む」の《都合》とは、具体的に何かを書けば、息子の言動への同情めいたニュアンスをそこに読み取られかねないという危惧であろう。
「己も省て孝行等の大問題を軽々と筆にするの任に非ざる」とは、高島酒造の後継者であるべくして生まれた立場でありながら、父の信頼に背き、継ぐべき家業を放擲して、文学と禅三昧の、いわば世外の者となって生きている宇朗自身の自覚を示すものだ。親不孝について、非難する資格はない自分である、という気持ちだろう。
「かかる不文も或るいは他山の石とならざるにあらざらんと斯くはものしつ」とは、不文、つまり《烈士》を子に持ってしまった親の苦渋という具体的な事実は、何も書き表さないことが、結局は他山の石 ( ※誤りを見てそれを自分を磨く方途にすること ) にならないということもないのではなかろうか、とこのように言っておくことだ、と二重否定の婉曲な言い方である。
( ある、と言いたい気持ちを持って回った言い方で表現している ) 

◆ 「生死を賭して危険に入るべき事件」の背景

この《感懐》という文章を書いた約2年後、「昭和6年9月 生死を賭して危険に入るべき事件あり 徹日徹夜七日の支度長途行旅にて卒倒せむばかりの疲憊 ( ひはい ) 」という宇朗の言辞が、1987 ( 昭和62 )  年、宇朗の次男、高島力朗が出版した遺稿詩集『止息滅盡三昧』に出て来る。
これはどういう出来事を言っているのだろう。

宇朗の次女の高島満兎 ( まと ) ー1992 ( 明治42 ) 年10月28日~1934 (昭和9 ) 年7月13日ーがかかわっているのだろうか。以下、1985年 新日本出版社刊山岸一章 著『革命と青春』より抜粋して、満兎という女性の横顔を見よう。
満兎は、バスケットボールで活躍する運動好きの学生だったが、二歳年上の兄、日朗からの感化により社会主義活動に近づき、学生社会科学連合会 ( 略称 学連 ) で活動。その頃、一度検挙されたものの、父宇朗の友人が警視庁の上層部であったので、宇朗が頼み込んで、釈放してもらったことを、満兎を訪ねた友人に語っている。宇朗の狼狽と、親としての必死な行動がうかがい知れる。
1930 ( 昭和5) 年4月、日本女子大学を卒業すると、満兎は兄以上に先鋭的な思想を抱くようになりその目的のため、「無産青年」編集局で地方部の仕事について、東京以外の各地の連絡や支部作りに当たっていた。「無産青年」は、日本共産党青年同盟中央機関紙である。「無産青年」読者会を組織し、国鉄千葉機関区に「帝国主義戦争反対」のビラをまくなどの活動もしていた。

「無産青年」山岸一章著「革命と青春」より転載

「単に亡き人を褒めるというのではなくしに、私としては、あんなに頭の切れる、責任感の強く、頑張る人は他に見たことがありません。当時としては理論的にも高く、私などもしばしば押されることもありましたが、他面、文学的な教養も高く、また演劇は、日本の古典から近代まで、なかなか詳しかったです」と当時の同じ任にあった田島治夫が後年、満兎について語った言葉を、宮川寅雄氏 ( 日中文化交流協会理事長、会津八一に師事、東洋美術史、和光大学で教鞭をとる ) が、「高島満兎さんのこと」( 1962年 日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」第8巻 第200号所収 ) という一文で紹介している。
また、宮川寅雄氏自身は、この稿で満兎の印象を、「彼女は色が浅黒く、まる顔の素朴で、清潔な感じの女性だった」「彼女は日本共産党東京市委員会などの仕事にも従った。いつも朗らかで、屈託がなく、さかんに冗談も言い、周囲を明るい空気にする名人だった。」と述べている。
また、女子大時代の満兎は、演劇好きの「マトシャン」と仲間内で呼ばれていて、彼女が革命運動に身を投じるなどとは全く思えなかったという、学友馬淵君江さんの言葉が、これも 山岸一章 著『革命と青春』に出ている。
これまでの記事で紹介してきたことからわかるように、高島家の血筋に流れれるたいへんに聡明な素質や、父宇朗譲りの文学への関心を満兎も受け継いでいたことを思わせられる。ちなみに母親のきくも、満兎と同じく日本女子大英文科卒業 ( 第二期生 )。 
満兎は、1930 ( 昭和6) 年に結核に罹っている ( 年末から翌年にかけ入院 ) が、療養途中病院から抜け出して日本共産党青年同盟の活動に戻っている。満兎と申し合わせて、病院脱出を手助けしたのは日朗である。タクシーを待たせておいて遁走した。兄と妹は、革命への情熱によって固い信頼と結びつきがあったことを示すエピソードだろう。しかし東京に二人がともにいたのは半年にすぎなかった。「ほんとうにいい兄貴だったのよ」と、満兎は友人に語っている。
上に示した「生死を賭して危険に入るべき事件」というのは、満兎が日本共産党青年同盟の活動にのめりこんでゆく、このあたりのことをさすのだろうか。

宇朗二女 高島満兎の像
宇朗二女 高島満兎の像 山岸一章著「革命と青春」より転載

それとも、長途行旅とあるから、あくまで推測にしかすぎないが、仮出獄した特高警察監視下にある身の日朗が、どこか所在不明となり、特高警察からの圧力がかかって、所在を探し回っていたのか。再び拘束されれば、獄死さえ予想される状況だったであろうから。
「卒倒せむばかりの疲憊 ( ひはい )」という表現には、上に掲げた昭和4年の6月の《感懐》という文章を重ね合わせたとき、息子の社会思想活動による不敬罪騒動が巻き起こした風雲に、翻弄されている父親の姿を思うのが、最もその表現の背景に近い気がしてくる。
いずれにしても、明確に語りたくない事情であったことを思わせる書き方だ。

◆ 執筆の場を失う

再び昭和4年に戻るが、宇朗は雑誌『調和』への連載も、同年8月号からは降りている。「先月号まで仏典寓話をお書きくださっていた通達居士が今後おさし仕えのため、執筆して下さることが出来なくなったので ( 以下略 ) 」と執筆者変更のコメントが同誌に出ている。
不敬罪となった長男とのつながりで、公刊の雑誌に書くことを自らはばかったのだろうか。皇国主義が国民を縛るくびきであった時代、不敬罪に問われる子を育てた親、という世間の目は、現在においては、リアリティをもって想像するのは不可能だが、陰湿で、疎外感に満ちたものであったことだけはわかる。
                       以下続編とします。
                                                                           令和5年6月  瀬戸風 凪
                            setokaze nagi

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