ひとりの少女が世界を動かす!5分でわかる『アンネの日記』

・なんとなく聞いたことあるけど、そんなすごい人なの?
・Wikipediaとかちょっと長くて読むの大変!サクッと知りたい!

という人を対象に書いています。

YouTube動画も出しているので、音声で聞きたい方はぜひこちらから

【目次】
1:アンネ・フランク
2:ユダヤの教育
3:「身近なひとりになる」ということ
4:アンネから学ぶ情報発信の大切さ

【1:アンネ・フランクとアンネの日記】
アンネの日記は 70カ国語以上で出版され、世界で最も翻訳された本の中の1冊です。2009年にはユネスコの世界記憶遺産に登録されています。
ひとりの少女の日記が、なぜこれほどまでに世界で注目を集めるのでしょうか。

1929年、アンネはドイツのフランクフルトで生まれ、父親のオットーは銀行を経営しており、裕福な家庭で育ちます。おしゃべりと文章を書くことが大好きな女の子で、学校では友達を相手にずーっとおしゃべりをしていたそうです。

しかし戦争が、彼女の人生に暗雲を立ちこめます。ドイツではヒットラー率いるナチスがユダヤ人の迫害を始めたのです。アンネの一家は、ドイツからオランダのアムステルダムに逃れていましたが、ナチスの侵略はオランダにも及び、一家は隠れて暮らすことを余儀なくされます。

隠れ家に入る少し前、1942年6月アンネの13歳の誕生日、両親からもらったノートに「キティ」と名前をつけて日記を書きはじめます。
将来は作家を夢見ていた少女は、戦争が終わったらこの日々の記録を「隠れ家」というタイトルで本を出版しようと考えていました。そのことを記し、書き綴った日記を何度か推敲しています。

アンネはきっと、隠れ家での生活の中で、罪のない同じ人間が閉じ込められて暮らさなければならない、理不尽で奇妙な体験を多くの人に知らせたかったのだと思います。

しか、1944年アンネの隠れ家での生活は予期せず終わることになります。密告によって隠れ家が、ナチスに発見されてしまうのです。アンネは強制収容所に送られ過酷な環境で過酷な労働を強いられ、1945年3月に15歳の若さで短い生涯を閉じました。

1933年には950万人いたユダヤ人は、1945年に350万人にまで減り、約600万人もの罪のないユダヤ人がナチスによって虐殺されたと言われています。

【2:ユダヤの教育について】
ではなぜ、ユダヤ人は迫害されなければならなかったのでしょうか。そこには宗教的な背景が大きく関わっていると言われています。

当時、ユダヤ人には祖国がなく、ユダヤ教徒またはユダヤ人の母親から生まれた子供がユダヤ人と呼ばれました。迫害のため土地を持つことができず、時には現金を取り上げられることもあったため、「教育」を資産として理解し、現代でも大きな成功を収めています。
彼らは長く続いた迫害の歴史という逆境に打ち勝ち、制限された「商業活動」「知的活動」の中で、大きな富を得ていきます。

ユダヤの格言には、こんな言葉があります。
「人が生きている限り、奪うことが出来ないものがある。それは知識である。」

グーグルのラリー・ペイジ、Facebookのマーク・ザッカーバーグもユダヤ人です。アメリカのユダヤ人人口は全体のわずか2.2%にすぎませんが、2019年フォーブスの発表によるとアメリカの富豪上位20名のうち6名、なんと30%がユダヤ人なのです。また、歴代ノーベル賞の受賞者の約20%がユダヤ人です。

「ユダヤ人の教育の秘密」が気になる方は、ぜひ藤田田さんの「ユダヤの商法」を読んでみてください。

【3: 身近なひとりになる】
第二次世界大戦の後、「アンネの日記」が出版され、アンネはユダヤ人の象徴として扱われます。多くの人々がユダヤ人に同情心を抱き、協力的になっていきます。

「アンネの日記」はなぜ、これほどまで人々の心に届いたのでしょうか。

突然ですが、大河ドラマをみたことがありますか?
大河ドラマを見ると、歴史上の人物が身近に感じることはないでしょうか。
私は高校生の時、漫画ベルサイユのばらにはまり、世界史の成績があがったことがあります。教科書の人物の羅列は覚えるのに本当に時間がかかるのに、物語になると、まるで自分がその世界に入ったかのように感情移入し
簡単に覚えることができますよね。

「アンネの日記」も同様に、私たちの日常にアンネが寄り添ったのです。隠れ家で過ごしていたこと以外、彼女の日常は特別なものではありませんでした。ふつうの少女が、反抗期で母親や友達への辛辣な言葉を書いたり、性の目覚めで、一緒に隠れていたペーターへの恋心を抱いたり、はじめてのキスをしたり、「少女の成長」が容易に想像でき、共感を呼び、友達のようになっていたのです。

英語圏では、日記(Diary)は、個人的な目的でつける日々の記録のことで、
秘密性が高い風潮で使われています。学校の課題などで、日記をつけるときはジャーナル、というふうに表現されます。

アンネの日記は、オランダ語の現代は「隠れ家」ですが、英語のタイトルが「The Diary of a Young Girl / 少女の日記」日本語が「アンネの日記」です。
彼女は日記にキティと名前をつけ、こんな風に書き出します。

親愛なるキティへ 
あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを
何もかもお話しできそうです。
どうか私のために、大きな心の支えとなぐさめになってくださいね。

英語のタイトルが「Diary」になったのは、この、少女の秘密の打ち明けをこっそりのぞいているような気持ちになるからではないでしょうか。
この本を手にする、世界中の誰もが彼女の過酷な運命を知っているのに、
日記の中のアンネは永遠に知ることがない、という事実も感情を揺さぶられます。
ユダヤ人は1948年初めて自分たちの国、イスラエルを建国しました。

そして、私にはもうひとつ、事実を身近に感じされてくれた少年がいます。
以前2年ほどエジプトで働いてことがあるのですが、私のいた大学病院にパレスチナ自治区のガザから、ひとりの少年が搬送されました。
イスラエルの攻撃によって負傷した小さな少年です。

エジプト、はガザからシナイ半島を通じて陸路で移動することができるので、道のりはおそらく簡単でなかったと思いますが、ガザを脱出して逃れてきたのです。
ほんとうに、とても痛々しい姿でした。
何より、たぶんまだ小学生くらいの年齢だったと思いますが、ほっぺや顔つきには幼さが残っているのに、目や表情は成人のような鋭さで、過酷な生活を垣間見たようでした。

今度はパレスチナに、かつてのアンネと同じように苦しんでいる人々がいることを知りました。

2020年1月、アウシュビッツ強制収容所は解放から75年を迎えました。
パレスチナの問題は今なお続いています。

【4:アンネから学ぶ、情報発信の大切さ】
もし、アンネが日記を書いていなかったら世界はどうなっていたでしょうか。ユダヤの人々の苦しみを、これほど多くの人たちが共感することはできなかったでしょう。

話を、私の情報発信に置き換えてみます。私は新卒で高校の教員になりました。私の学生時代は、大変に地味で真面目、根暗だったので、教員になって初めて、「ヤンキー」さんに出会いました。生徒指導することが本当に難しくて、なめられてなめられて日々、私は教員に向いていないのでは・・・と悩んでいました。

そんな時、同僚が励ましてくれた言葉があります。

「もし、教員が皆 同じタイプの人たちだったら、
自分と合う人が見つからない生徒は ずっと苦しむことになる。
自分と打ち解ける生徒がひとりでもいたら、
少なくとも一人は救えるから、教員に向いていると思う」

打ち解けるひとりを見つけることは、それほど難しいことではありませんでした私たちの情報発信も、同じではないでしょうか。誰かの話が身近な自分ごとになる、忘れにくくなる、学びにつながる。

私のかつての悩みは、明日の誰かの悩みかもしれない。
私の言葉が悩んでいる誰かひとりにでも、届いてくれたら嬉しいです。また、情報発信というアウトプットは、最大限に知識のインプットをサポートしてくれます。

今回は以上です。
最後までお読みいただき、ありがとうございます♪
コメントやリクエスト、ご意見等はぜひTwitterでご連絡ください。

ありがとうございました。


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