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2024/7/7 ブルーベリーを摘むこと

ゴールデンウイークが明けた頃、北本に引っ越した。
引っ越してすぐひょんな縁があり、5月末から近所の金子果樹園さんで、ブルーベリー摘みのアルバイトをしている。朝7時~9時までの2時間。旬を迎えた品種をひたすら摘む。
20種類、700本以上のブルーベリーが広がる果樹園の早朝は、あわい紺色の果実が朝露にぬれ、みずみずしく光る。

摘み取り作業をするのは、主に私と農主の金子さんの二人。時々私の友達や、金子さんの奥様も一緒に摘み取りをすることがある。
ブルーベリーを摘み始めて早1ヶ月強、金子さんのブルーベリー知識に驚き、天気に意識を向け、虫に共感を覚え、味の違いに敏感になった。

天気

例えば、今まで特に関心がなかった天気に意識を向けるようになる。急な夕立があれば、この雨水を吸って、果実がどのくらい膨らむだろうか、急激な果実の成長に耐えきれず皮が裂け、裂果してしまうものがどのくらいあるだろうかと考える。風が強く吹けば、この風でいくつの実が落ちてしまうか、強い日照りが続けば、この日差しで果実の水分が蒸発し明日の摘み取りはしなびた実が多くなってしまうのではと気にかかる。心配事だらけ。

時々、裂果した実に頭を突っ込み、一心不乱にむしゃぶりついているアリやコメツキムシを見つける。私がその実を摘んでも、摘まれたことに気が付いていないようで、食べるのをやめない。虫たちの気持ちはわかる。ここのブルーベリー美味しいもんね、食べ始めると止まらなくなるもんね…と共感しつつ、ポイっと遠くに放る。
5月末にはアリとテントウムシくらいしかいなかった虫も、6月半ばにはカメムシやカマキリが加わり、7月に入るころにはイラガをはじめとした毛虫が出始めた。カメムシと毛虫はなかなかの曲者だ。カメムシは実に小さな穴をあけ、汁を吸ってしまう。一見傷がないように見える果実だが、カメムシに食われたものは実が痛み、グニョグニョになってしまう。これでは出荷できない。
イラガは鮮やかな黄緑色の毛虫で、ツノのような部分から延びる毛に触ってしまうと痛みののち、かぶれる。私も先週イラガにさされてしまった。予想以上の激痛。神経痛の種類なのか、一時は刺された指の関節が、もう曲がらないのではと思うほどだった。しばらくすると痛みは引いたのだが、こんな激痛のリスクを避けられるなら、農薬を使うのも納得できるな…と思った。
ブルーベリーを食べにくるのは鳥も同じだ。ついばまれた実は傷がつき、出荷できないが、金子さんは「あいつら美味しい実がどれかわかっている」と、鳥たちに対して怒りより尊敬の念が混じった言葉を使う。そんな金子さんもイラガには容赦ない。見つけ次第「出やがったな」と踏みつぶした。

ブルーベリーの味は品種によって全く異なる。香りが強いもの、甘みが強いもの、酸味が特徴のものなどなど様々だ。金子さんは旬を迎えた品種があると必ず「これ食べてみて」とその場で食べさせてくれるのだが、味の感想を伝えるのに毎回苦戦する。「酸っぱい」「味がしっかりしてますね」「甘みが強い」自分の味を表現するボキャブラリー少なさが不甲斐ない。だからこそ「さっきとは違う味だ!」と味で品種の区別がついたときは嬉しい。
同じ品種であっても、天気によって味が変化するのはもちろん、木によっても若干味が異なる。味が薄いもの、味が濃いもの、色が鮮やかにでるもの、甘みが強いもの。好みの味を実らせる木が、なんとなくわかるようになってくる。
私はただ味を楽しむだけだが、金子さんは木々の様子をみながら追肥やビタミン剤をやり、毎日味を調整する。実るまでが勝負なのかと思っていたが、実ってからが腕の見せ所のようだ。

アート

虫や果実という言葉が通じない他者への想像力を働かせることは、人間ではない、別の目線から世界をみることだ。カメムシの異常発生や越冬したかもしれない巨大なイラガの幼虫からは、気候変動問題が身近に、切実な問題として迫ってくる。自分とは遠い話題だと思っていた世界のあれこれが、すべてブルーベリーの延長線上に繋がって見え始める。

私にとってのアートとは、他者のような存在だ。今までの自分をゆさぶり、ひっくり返してくれる存在。ならば、私の意識を向ける方向を変えたブルーベリーも、同じようなものだと思う。というか多分、ずっと昔は、自分の専門外のことを知ることがきっと、アートに近い存在だったのではないか。
アートの語源をさかのぼれば、ラテン語の「アルス」、ギリシャ語の「テクネ」にたどり着く。「手仕事」や「術」がアートの源泉ならば、他者がもつ自分が知らない技術に驚き感動し、そこに潜む様々な事象に触れることで世界の見方が変わってしまうことは、きっと素朴なアートの体験だと言えるだろう。

アート業界から離れ、北本に引っ越し暮らしの編集室で働くことを決めたのも、このような体験や思考の変化を期待していたからかもしれない。確立されたアートではなく、日常に転がっている事象から想像力を掻き立てることができたなら、もっとアートは身近になると思うから。(ここで私が指向するアートは、ドキュメンタリー映画『アートなんかいらない!』(監督:山岡信貴)に照らせば、「アート」より広いモノづくりを内包する「あーと」に近い。)

長々ブルーベリーについて書いてしまったが、要するに最近の私にとっての「あーと」は、ブルーベリーを摘むことなのだと言いたかっただけなのです。

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