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読み切り ちいたら散歩~GO TO キャンペーン下の金沢を歩く~ 中編

【読み切り】ちいたら散歩~GO TOキャンペーン下の金沢を歩く~(中編)③GO TOする人びと

 ガイドマップで見つけた「長崎キリシタン殉教者の碑」を求め、金沢市街地の外れ、金沢城の東(鬼門)に位置する標高141mの丘陵、卯辰山(うたつやま)をブラブラしている私だが、そもそも今回、GO TOキャンペーンを利用して金沢を訪れたのは、ある学会の研究会で発表するためだった。少し時間を戻したい。

 金沢へと向かう新幹線は予想以上に混雑していた。私の前列から数列は同じ旅行会社のパックツアーとみえ、男性の添乗員さんが甲斐甲斐しく全員にバッジを配っていた。駅に着くと、今度は若い女性たちのグループ旅行が目立った。東京方面から、あるいは京都の方からも集まってくるのだろう。金沢駅構内にあるお土産屋さん街(金沢百番街)は、GO TOの地域クーポンが使えることもあって、とても賑わっていた。加賀棒茶や和菓子などが定番のようだ。私も、輪島塗の食器を買った。GO TO樣々である。

 さて、土産のことは一先ずおき、本来の目的であった研究会について一言する。私は「砂川から見る内灘闘争」をテーマに簡単な報告をおこなった。今から68年前の1952年、日本海の向こう、朝鮮の戦地で使用するため、石川県の小松市に本社を構える小松製作所などが生産した砲弾の試射場を作るため、金沢市郊外に位置し、河北潟に面する漁村・内灘の砂丘がその候補地となった。そして、1953年、接収反対運動は激化し、支援のため労働者や学生、文化人などが内灘を訪れた。そのなかには、砂川闘争にも関わる清水幾太郎や写真家・土門拳の姿があった。彼・彼女たちも、それぞれの運動を背負って、つまりはキャンペーンを張って、内灘へと向かい、そして去っていったのだが、その様子は次のようなものであった。「1952年2回生へ進んだときには、もう西洋美術史はどこかへ行ってしまい、日本史(京大では国史学と呼んでいた)専攻を選び、戸田芳美・松浦玲というクラスメートの強い感化を受け、石母田正『歴史と民族の発見』に心酔し、53年には文学部自治会副委員長になったり、京都駅から観呼の声に送られて内灘試射場へ向かったりした」(江口圭一「曲折の五十年」永原慶二・中村政則(編)『歴史家が語る 戦後史と私』)。あるいは、清水幾太郎は、反対運動が終わったあとの1957年、5回目そして最後となる訪問をおこなったが、そのときには砂川の人々から渡された「内灘のお兄さま」宛の手紙と「祝内灘基地返還」と記された赤旗を「手土産」として持参していた。そんな当時のGO TOエピソードも交えながらの発表だったが、質疑応答のなかで、次のような質問を貰った。意訳すれば、「「民衆史」とか「民衆運動史」と盛んに言うけれど、その「民衆」って誰なんだ?どういう存在をもって民衆と呼ぶのか?」。質問はズバリ「民衆とは誰か?」を問うていた。

 この難問「民衆とは誰か」を頭にチラつかせながら、私は卯辰山を歩いていた。

④キリシタン殉教者の碑

 前回noteの最後で紹介した昭和38年6月26日の新聞紙を見つけたあと、少し頭を整理するため自販機でお茶を買い、そして、暗くなる前になんとしてでも「キリシタンの碑」を見つけたいと、山を下りはじめた。すると、少し開けた場所があり、駐車場も設けられた公園的な空間がある。ここでも碑はないかとキョロキョロしていると、「民衆」とは対極にある人々の碑に出会った。

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 「閑院宮 久邇宮 梨元宮 三殿下御登山記念」。脇を見ると「大正十三年十一月四日」と書かれている。大正13年は1924年である。つまり、今から100年近く前に建てられた碑にも関わらず(もちろん後で作られたものかも知れないが)、皇室にまつわる碑は文字が読めなくなることがない。時々彫り直しているのだろうか、それとも最高級の石と技術をもって、ふかーく彫っているのだろうか?ただ、一つ気になったのが、御登山や御小休所と書かれる場所、すなわち、わざわざ宮家の人々が気や心を留めた場所というのは、ときに民衆の深い歴史があり、その記憶や意味づけを上書きするため訪れ、碑が建てられることもあることだ。私は、ここで新選組と関わりが深い日野本陣(佐藤彦五郎の生家でもある)の入口に建てられていた明治天皇「御小休所跡」の碑を思い出していた。

 そして、この「御登山記念」の碑から、少し山を分け入り、下っていたところに「キリシタン殉教者の碑」を見つけた。ここでも、クマ注意の警告があった。

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 率直に言って、碑へと向かう道はかなり荒れていて、少し進むのが躊躇う感じではあったが、碑が置かれている場所は、しっかり草も刈り取られていて、紅葉がわずかに残る木漏れ日のなかに、静かで穏やかな時間が流れていた。

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 ここでは、この碑の後ろに刻まれていた碑文をあげたい。次の写真からでは読み取りずらいので、このあとに全文を記すが、出来れば碑の文字を指で追っていくように小声で読んでみると、より言葉のニュアンスや碑文を読む感じがつかめると思う。

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 「このあたり 草深き谷間は 藩末の頃 織屋 湯ざやなど在りたるあとにして 悲しき奉教への歴史を封じたり。

 時に明治二年 維新のあともなお信教の自由許されず 長崎浦上なる耶蘇教徒多く捕われ うち五百人ばかり金沢藩にあずけられて因徒となれり。二年十二月まず百二十四人織屋に入る 明けて三年一月 その家族らおよそ四百人湯ざやに入る。 吹雪 破屋を搖る

 藩 すなわち石川舜台 松本白華らを向けて教誨 日を重ねるも信篤し。ついに衣服を剥ぎ 食を絶ち 酷寒の夜にさらして改宗を迫れども 唯々サンタ マリアに祈り ロザリオを繰りて堪えに堪ゆ。 星霜四年も閲し 迫害疾病に斃れ 天に召されたるもの百五に及べり 

 明治六年春 政府 キリシタンの禁制を解く。釈されて浦上に還るもの四一九人と記されたり。新生の孤児四十四を加う。 今 そのことごとくパライソに眠り給う 安らかなり 明治百年というに当り その篤信忍苦の生涯を後の世に残さんことを願い 碑を建ててこれを鏤す

題写 徳田興吉郎 碑文 チプリアノ、ポンタッキヨ 1968,8.11」

 ここに記されている歴史は、歴史教科書などで「浦上教徒事件」と扱われる出来事の、その顛末である。その詳細について記す知識を私は持たないが、「民衆」という視点から、この出来事/歴史を捉えたとき、彼・彼女たちは一体どういう存在なのか。そのときには、もちろん1968年に、この碑を建てた人々の存在を抜きにしては考えられない。

 そして、この碑の前で、私は作家・長谷川伸の「紙の墓碑」という言葉を思い起こしていた。長谷川が、名著『相良総三とその同志』でその存在や歴史を「地底からよびもどした」(鹿野政直)のも、幕末の混乱期に処刑された相良総三をはじめとする草莽たち(長谷川の言葉ではないが「<歴>として存在しながら<史>となり得なかった人々の生)だった(この出来事は偽官軍・赤報隊事件として知られている)。 

 だが、さらに私の心を打ったのが、この碑が建てられてから30年後に起きた出来事である。それについては、碑の近くに備えられた解説パネル(卯辰山の浦上キリシタン流配史跡 案内地図)が語っている。

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 地図の中央③が現在地いる「長崎キリシタン殉教者碑」(1968年8月11日建立)である。その右上、⑥埋葬骨群発見現場(1998年10月15日)。これが意味するのは、どういうことか。つまりは、先ほどの碑が建てられたときには、ここで浦上から流されたキリシタンたちが命を落としたのは文献その他から把握されていても、その遺骨や埋葬された場所は不明であったということである。別の言い方をすれば、長い沈黙を経て碑にその「歴史」が刻まれてから、ようやく30年後に骨が掘り起こされた。この時間の長さ。世代でいえば、玄孫(やしゃご)の代になって初めて一つの「歴史」が掘り起こされる。それは決して、ツタンカーメンの話をしているのではなく、日本の近代がはじまったとされる「明治」の最初期(誕生期)に起きた出来事の死者のことである。

 私は、なんとしてでも、この地図にも書かれている①「織屋跡」を見たいと思い、豊国神社・菖蒲園と記されている辺りに行くことにした。碑を見ている最中、ずっと後ろの茂みでガサガサ・ゴソゴソ物音がすることに気づいてはいたが、クマもいまは味方だろう…!(後編につづく)

【執筆者プロフィール】
高原太一(たかはら・たいち)
東京外国語大学博士後期課程在籍。専門は砂川闘争を中心とする日本近現代史。基地やダム、高度経済成長期の開発によって「先祖伝来の土地」や生業を失った人びとの歴史を掘っている。「自粛」期間にジモトを歩いた記録を「ぽすけん」Noteで連載(「ちいたら散歩 コロナ自粛下のジモトを歩く」)。論文に「『砂川問題』の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に」(東京外国語大学海外事情研究所, Quadrante, No.21, 2019)。

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