見出し画像

読み切り ちいたら散歩~GO TOキャンペーン下の金沢を歩く~ 後編

【読み切り】ちいたら散歩~GO TOキャンペーン下の金沢を歩く~(後編)⑤卯辰山の歴史

 金沢駅を出発し、千寿閣(バス終点)から始まった散歩も、途中、クマに怯えながら、女子挺身隊「受難乙女の像」や治安維持法で獄死した俳人の碑、殉職警察官の碑、殉職消防団の碑、ナゾの新聞紙、三殿下御登山記念の碑を経て、ようやく「長崎キリシタン殉教者の碑」へと辿りついた。その碑文から、この「長崎キリシタン」が明治2年、浦上教徒事件によって流刑となり、卯辰山で弾圧を受け亡くなった百余人の魂を鎮めるものであることが分かった。明治2(1869)年から6(1873)年の卯辰山には、500名あまりのキリシタンが牢につながれていた。私は、いまその牢があった場所の一つ、織屋跡(豊国神社付近)を訪ねるため山を下っている。その道中で、金沢ゆかりの日蓮聖人銅像や地域の偉人(清水誠先生)の顕彰碑、戦時中の強制連行で亡くなった中国人15名を祀る「日本中国友誼団結の碑」を見たが、ここでは割愛する。

 そして辿りついた卯辰山三社の一つ、豊国神社は一見したところ、もの寂しい雰囲気はあるが、なにか特別な感じはしない。境内には「退筆塚」と書かれた碑があり、建立されたのは「明治元年戊辰九月」。会津藩が最後の抵抗を行なっていた頃である。けれども、参道を登ってきたトレッキング姿の男女が「なんにもないね」と引き返していった通り、私もしばらくして元のバス通りへと戻った。正面から見るとこんな感じ(正面は卯辰神社、その右が豊国神社)である。

画像1

 それから、ふたたび地域の偉人(津田米次郎)の像を見つけ、明治の殖産興業に尽くした地域の実業家たちはその生涯が顕彰されるのに、つまり個人名で碑や像が建てられるのに、キリシタンの碑には一人一人の名は刻まれておらず、その個人を復権させることがすなわち歴史を書く行為になるだろうと考えていた。それに較べ、空襲で亡くなった女子挺身隊の碑には女学生の名前が全員刻まれていたが、それはあくまで祖国に殉じた者としてである。殉じるといえば、その見かけこそ荘厳であったが、殉職警察官ならびに殉職消防団の碑には個人名がない。とはいえ、肩書きでしか祀られないその死も、民衆と同様、集合的なものとしてしか把握されないという意味では、無名の一人である。それなら、民衆の歴史を書く作業とは、まずは「衆」でしか浮かび上がってこない存在をもう一度、個人名に返し、さらに集合的に再構成することだろうか。だが、ここに眠るキリシタンたちは、まさに衆として死んだ(殉教した)ことに喜びを抱いているのも知れない。もう少し勉強しなければ…。

 そんなことを考えながら、峠道をグルグル下りていくと、そこに次のパネルがあった。

画像2

 この公園は、幕末に「財政並びに政治的な逼迫状態に至った加賀藩における、地域「再生」を賭けたプロジェクト」(本康宏史『軍都の慰霊空間-国民統合と戦死者たち-』p.348)としての一面があった。そして上記のパネルによれば、「大衆のための諸施設の整備を目的に開発した」と書かれているが、それと同時期に幽閉されていたはずのキリシタンたち「織屋跡」の歴史がここには書かれていない。そして、驚いたのが、次のマップである。

画像3

 どうやら、碑はまだまだある。これは半日では到底見切れない。画面中央に「北越戦争の碑」と書かれているのが気になるが、スタンプラリーでもないから、また次回と思いつつ、「織屋跡」へと近づく花菖蒲園まで下りていった。そこで、また一つ地図に出会う。

画像4

 これを見ると、先ほど訪れた「豊国神社」(画面左端)へと連なる参道の途中に「北越戦争戦死者の碑」(画面中央左上)があるのが分かる。それなら、一苦労してでも見ていく他ない。私は、参道を登ることにした。

⑥北越戦争の碑

 参道を上がって、まず目に入ってきたのが次のパネルである。

画像5

 文の初めは、この場所の縁起のようなものが記されているが、注目すべきは三段落目である。「さらに、この丘あたりが安政五年(1858)の「安政の泣き一揆」の際、町人たちが二晩にわたって金沢城に向かい「米よこせ」と大声で叫んだ時の中心地であろうと推察されている」。むむ、それでは初めの「日暮ヶ丘」の呑気な感じと随分異なる。この丘にも、また歴史ありか。それは一先ずおき、この場所から城に向けて撮った写真を挙げておく。

画像6

 なるほど、城を眺めなら「お城が燃えている」と泣いたのは上級武士たちの子ども(白虎隊)であって、それとは全く違うまなざしを幕末から明治にかけて城に向けている一群の連中がいた。この歴史と、キリシタンたちの歴史は重なるところがあろう。泣き一揆の首謀者とされた7人はいずれも処刑ないしは獄死し、しばらくはこの卯辰山に地蔵があったという。

 この写真を撮ったころ、ちょうど陽も傾き、西日がいい感じで差し込んで来ていた。丘に設置された休憩所では、カップルがまどろんでいる。それを横目に私は木々に覆われ暗く、あまり整備が施されていない参道の階段をポツポツと登っていった。次に見つけたのが「勤王家 安達幸之助君之碑」である。

画像7

 写真右奥が、その碑だが、逆光で上手く写真が撮れなかった。この安達君は、加賀藩微祿の臣であったが、村田蔵六(大村益次郎)の塾に学び、その塾頭となるなど知遇を得、新政府において数々の政策を立案したが、明治2(1869)年9月、大村といるところを襲われ即死、大村も後に死んだ。そして、この碑は明治3年9月、元幕臣である勝海舟が撰文し、建立したものという。思わぬ勝の登場に驚いた。ただし、碑自体は劣化が激しく、勝の字は読めなかった。

 だんだんと頭のモードは「多摩スタディーズ」(新選組から近代を見返す)に切り替わってくる。そして、次の写真にある元招魂社本殿に向かう大階段を登って見つけたのが、戊辰戦争(北越戦争)の戦死者を祀る碑であった。

画像9

 その碑というのが、これである。

画像9

画像10

 碑の前に立つと、そこに「隊長」や「監軍」、「斥候役」と書かれた肩書きの横に「水野徳三郎寛友」のような名前が刻まれているのが分かる。

画像11

 まさに、白虎隊と同じ戊辰戦争の死者であり(ただし加賀藩は新政府側に付いた)、碑が何基も(7基が戦没者の記念碑、1基が維新前後の政治的殉難者の碑、計8基)ずらりと並ぶのは飯盛山(会津)に似ているが、その雰囲気や廃れた様子は上野彰義隊の戦死者が葬られた円通寺(南千住)に限りなく近い。遠目に見るとこんな感じの場所(1枚目写真、画面奥)に碑が眠っていた。ちなみに、元境内は痛みが激しく、建立に関わったと思われる人々の碑も、いまはこんな感じである(2枚目・3枚目写真)。

画像15

画像13

画像14

 ふたたびこの前日の研究会でもお世話になった本康先生の研究(『近代日本の形成と日清戦争-戦争の社会史-』所収)によれば、北越戦争の死者は106名という。彼らの名前は、たしかに碑に記されていた。しかし、その名が刻まれているのは、藩、しかも新政府の側に立った勝者の戦死者であるがゆえに手厚く葬られているのである。これらの碑が建てられたのは明治3(1870)年、その後34(1901)年に前田家の手で補修が施されている。ここでも思い出すのが、碑の横で牢につながれていたキリシタンたちのことである。つまり、明治政権樹立のため戦死した者たちを顕彰する碑とキリシタンたちへの弾圧は、近代日本の成立を考えたときにコインの表と裏の関係にある。その顕彰と弾圧の関係性は明治初期の、歴史学がいうところの天皇制絶対主義政権の形成過程に限ったことではない。この日に見た、殉難や殉職、あるいは弾圧された者たちの復権を図る碑と宮家の碑、それぞれの死者と生者は見えない糸で繋がっている。しかし、このように時代や出来事を串刺しにして歴史が書かれることは少ない。それぞれの出来事や事件は、その固有性のもとで検証され「実証的」に描かれる。だが、その死者たちの「実存」についてはどうだろうか。もし、卯辰山の民衆史のようなものが書かれるならば、一人一人の実体と実存の両方に迫った「実証」の手続きが必要だ。そして、その実存のなかには、城に向かって泣き叫んだ百姓・町人たちの声も含まれていて欲しい。史料が乏しいという理由で、彼らの声が歴史小説や伝承のなかに押し込められてしまうのは、それこそあの場所を「日暮ヶ丘」と名付けるようなものである。

 さて、この散歩日記も、そろそろ終わりである。この戦死者たちの碑を訪れる前に、金沢市街が見渡せる展望台で一休みをしていた。そこでお菓子を広げて休憩していた地元のおばあちゃんたちがこんなお喋りに興じていた。「今日は観光バスが見えないね~」と一人が言うと、もう一人が「今日は海も船がいないね~」と返す。そう言われて海の方を見ると、たしかに船がいない。あの海の彼方からキリシタンたちは来たのだろうか。そして、明治6年、また長崎・浦上に帰っていったのだろうか。あるいは全歴史的に、さまざまな人がこの場所を訪れ、来ては去り、また行くものもあり、そのうち何人かは帰ることが叶わずこの卯辰山に眠る。しかし、その死者を掘り起こす者もある。その努力の結晶が「長崎キリシタン殉教者の碑」であることは論を待たない。

 いまは数年に一度という寒波に見舞われ、すべては雪のなかだろう。次訪れるのは夏の学会だろうか。そのときはクマに代わって、蚊の大群が手荒い歓迎をしてくれるだろう。最後に、今回金沢に導いて下さった稲垣さん、井上さん(カルスタ学会)、金沢のバス停で「うだつがあがんね~な」と見送ってくれた小笠原・山本先生、竹崎くん、内灘の発表でお世話になった本康先生に感謝申しあげます。(おわり)

画像15

次回の学会、カルチュラル・タイフーンin金沢については、こちらからご覧下さい。

【執筆者プロフィール】
高原太一(たかはら・たいち)

東京外国語大学博士後期課程在籍。専門は砂川闘争を中心とする日本近現代史。基地やダム、高度経済成長期の開発によって「先祖伝来の土地」や生業を失った人びとの歴史を掘っている。「自粛」期間にジモトを歩いた記録を「ぽすけん」Noteで連載(「ちいたら散歩 コロナ自粛下のジモトを歩く」)。論文に「『砂川問題』の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に」(東京外国語大学海外事情研究所, Quadrante, No.21, 2019)。


記事自体は無料公開ですが、もしサポートがあった場合は今後の研究活動にぜひ役立てさせていただきます。