見出し画像

#324 悲劇のヒロインって楽しい()


誰かが私のことを心配してくれるとき、その人の意識がすべて私に向いている気がする。

自分という存在が認められ、必要とされ、大事にされている気がする。

優しい言葉をかけてくれる。同情してくれる。

だから、私は悲劇のヒロインをやめられない。



着るものがあり、食べるものがあり、家がある。

高校に通っている。

塾に通っている。

家族がいる。

愛され、守られ、生かされている。

私立の大学に通ってもいい、お金の心配はしなくていいと言ってくれる。

こんなにも恵まれている、恵まれ過ぎている。

それなのに、私は、悲劇のヒロインを演じている。



私は、小さいころから愛されて育ってきました。恵まれた環境で、優しい人たちに囲まれて、健康で、何不自由なく生きてきました。でも、常に、「もっと自分を見てほしい、認めてほしい。」という承認欲求があるような気がします。

過去は変えられない、どうしようもないものなので、ここに詳しく書くことはしませんが、幼稚園・小学校・中学校・高校、それぞれの場所で私は「悲劇のヒロイン」を演じてしまったことがあります。

友達や先生など、家族以外の私を大切に思ってくれる人に、もっと自分のことを見てほしいという気持ちがあり、わざと心配させるような態度をとってみたり、悩みを大げさに言ってみたり、うそを言ってみたり。

恥ずかしいことです。

でも、これらは全部私がやったことです。私の過去です。

「悲劇のヒロイン」を演じているときは、とても心地がいいんです。自分が満たされる感じがして。さみしい気持ちが埋まっていく感じがして。でも、いつもあとから後悔します。

今、相手が見ているのは、ほんとうの自分ではなく、演じている自分。もしも、ほんとうの、何不自由なく順風満帆に生きている自分だったら、相手は今のように優しくしてくれるのだろうか。と。

また、相手に多くを求めてしまいます。こういう言葉をかけてほしいとか、こんなふうに接してほしいとか。自分が求めていた行動が返ってこなかったときには落ち込んで、また過剰に演じてしまうのです。

そして、かわいそうな自分でいることと満たされることが同義、つまり、「悲劇のヒロイン」でいることでしか自分を満たせなくなってしまうのです。だから、自分を満たすために「悲劇のヒロイン」を演じて、相手に依存してしまうのです。抜け出せないのです。私は幼稚園の頃から今まで、ずっとそうです。

精神的な自立が出来ていないからでしょうか。

自己肯定感が低いからでしょうか。

私は今年18歳。それなのに、これからもずっとこのままだったら、「悲劇のヒロイン」を演じることでしか自分を満たせない、みっともないままだったら、どうしよう。

「悲劇のヒロイン」を演じてしまう自分。

承認欲求の強い自分。

そんな自分も、全部、私。

これから先、私らしく生きていくためにも、まずはそんな自分も受け入れて、自分が自分自身を認められるようになりたいです。

きっと時間がかかると思います。

でも、人生一度きり。

私は一人しかいない。

そんな私という存在を肯定できる素敵な人間になりたいんです。



最後までお読みくださり、ありがとうございます。
私という人間を正直に書いてみました。
余談なのですが、タイトル「悲劇のヒロインは楽しい()」の()に疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。実は最近私の友達がLINEなでやり取りをするときにたまーに使っているのですが、私自身あまり意味は分からなくて。でもなんとなく、微妙な、何とも言えない感じを表現しているのではないかと思って今回使いました。笑


いつもありがとうございます!