橘曙覧メモ

「独楽吟」抄(『志濃夫廼舎歌集』橘曙覧、井手今滋編、一八七八)

独楽吟
1  たのしみは紙(かみ)をひろげてとる筆の思ひの外(ほか)に能(よ)くかけし時
2  たのしみは百日(ももか)ひねれど成(な)らぬ歌のふとおもしろく出(い)できぬる時
3  たのしみは朝おきいでて昨日(きのふ)まで無(な)かりし花の咲ける見る時
4  たのしみはあき米(こめ)櫃(びつ)に米いでき今一月(ひとつき)はよしといふとき
5  たのしみはまれに魚烹(に)て児(こ)等(ら)皆がうましうましといひて食(く)ふ時
6  たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中(うち)に我とひとしき人をみし時
7  たのしみは銭(ぜに)なくなりてわびをるに人の来たりて銭くれし時
8  たのしみは昼(ひる)寝(ね)せしまに庭(には)ぬらしふりたる雨をさめてしる時
9  たのしみは三人(みたり)の児どもすくすくと大きくなれる姿(すがた)みる時
10 たのしみは人も訪(と)ひこず事(こと)もなく心をいれて書(ふみ)を見る時
11 たのしみは明日(あす)物(もの)くるといふ占(うら)を咲(さ)くともし火の花にみる時
12 たのしみはいやなる人の来(き)たりしが長くもをらでかへりけるとき
13 たのしみは田(た)づらに行きしわらは等(ら)が耒(すき)鍬(くは)とりて帰りくる時
14 たのしみは衾(ふすま)かづきて物(もの)がたりいひをるうちに寝(ね)入(い)りたるとき
15 たのしみはほしかりし物銭(ぜに)ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき


【引用】Wikisource「独楽吟」より十五首選
https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%A5%BD%E5%90%9F (閲覧2022-12-19)


橘曙覧(一八一二~六八年(文化九~慶応四年))

曙覧の生れた家は、商家ではあるが、福井市での名家として聞えて来た家で且つ富んだ家でした。曙覧はその家の長男として生れました。その当時の風として曙覧は当然その家を継いで、商業を営むべきでした。しかし二歳で母に死に別れ、十五歳で又父に死に別れた曙覧は、心が感傷的になり、出家して僧にならうとしました。そして土地の僧について経文を習つてゐるうち、その僧が傍ら詩歌をも教へました。すると曙覧は、詩歌の面白みを覚えて来た、今度は学問を将来の食事にしようと思つて来ました。
  曙覧は、誰にも黙って京都へ行つて、漢学を修めました。江戸へも出ました。そして、同じく学問をするならば、国学を修めようと決心しました。この時、国学といつたのは前にもいつた賀茂真淵が起し、その弟子の本居宣長が大成した学問で、日本の古代精神を研究し、それを信仰とし、生活の信条とすると共に、他人にも教へて、同じ道に導かうとするものでした。今日でいふと神道にあたります。古代精神を研究するには、古い歌によらなければなりません。国学者が自身歌を詠み、他人にも詠ませるのはその意味においてです。
  (…)曙覧は、家を弟に譲つて、自身は何も持たずに家を出、同じ福井市に足羽山の麓に、ささやかな家を造つて住むことにしました。その時は三十五歳でした。
  この時から没するまでの三十余年を曙覧は専念に国学を研究しました。(…)
  国学者としての曙覧の生活は静かなものであつた。第一には古代精神を体読して、これを実行しました。作歌をたのしんで、傍ら人に教へました。「しのぶ舎歌集」がそれです。又国学の研究をして、断片的なものではあるが、学者としての研究を思はせるものを残してゐます。
  家庭の人としての曙覧も幸福でした、賢夫人の助けを得て、三人の子を持ちました。家は貧しくはあつたが、足ることを知つて、もの欲しがりをしませんでした。(…)
  しかし曙覧の生涯の上で、社会的に最も大きかつたことは、越前の領主で、賢明の聞えの高かつた松平春獄の知遇を得たことです。春獄は狩のついでに、親しく曙覧の庵を訪ねました。かうしたことは当時としては非常に破格なことでした。(…)今一つ大きなことは、外国の軍艦の通商を請ふために我が国に来たことから、天下が騒がしくなり、続いて王政復古の大業がならうとする時代を、親しく目に見たことです。国学者である曙覧は、国威の傷つけられたことを深く憂ひました。王政復古に際して大藩が勅命に順はないのを見て憤りを発しました。しかし、国学者としての曙覧の、理想の天下のほぼあらはれ来つたのを見ることを得たのは、深い歓びであつたらうと思はれます。明治時代になつて曙覧は、贈位されました。

【引用】窪田空穂『江戸時代名歌選釈』(理想社出版部、一九二九)。新字体に改めた。


橘曙覧略歴

橘曙覧は一九一二年、現在の福井県に生まれる。二歳のときに実母が没し、母の生家である府中の山本家に引き取られて養育を受ける。十歳のときに継母、十五歳のときに実父を失い、出家を試みるも福井の実家に引き戻される。十八歳のときに京都に向かい、頼山陽門下の儒学者児玉三郎の塾に入り儒学を学ぶも、再び実家に呼び戻される。伯父の助力を受けながら家業を継ぐが負債を抱えていく。二十一歳のときに三歳下の酒井直子と結婚する。二十二歳のときに伯父、二十六歳のときに叔母を失う。二十五歳で長女、二十六歳で次女を授かるが、ともに一歳を待たずに病没。二十八歳で三女の健女を授かるが、疱瘡に罹り四歳で没する。

  母の三十七年忌におのれ二歳といふとしにみまかりたまへりしなりけり
はふ児にて別れまつりし身のうさは面だに母を知らぬなりけり

  父の十七年忌に
今も世にいまされざらむよはひにもあらざるものをあはれ親なし
髪白くなりても親のある人も多かるものをわれは親なし


  むすめ健女、今とし四歳になりにければ、やうやう物がたりなどしてたのもしきものに思へりしを、二月十二日より疱瘡をわづらひていとあつしくなりもてゆき、二十一日の暁みまかりたりける。嘆きにしづみて(引用注:「あつしく」は病状が悪くなる意)
きのふまで吾が衣手にとりすがり父よ父よをいひてしものを

 三十三歳で飛騨高山に向かい、本居宣長の門人田中大秀に入門。ここで生涯の友人となる富田礼彦(いやひこ)と知る。三十五歳で足羽山の麓に移住し門弟に教授をはじめる。なお、同年に長男の今滋、翌年に次男の咲久(菊蔵)、三年後に三男の早成が生まれ、五人家族となって家庭を築いていく。
 足羽山の家を黄金屋(こがねのや)と称し、貧窮の生活をはじめる。歌集の巻頭歌は

あるじはと人もし問はば軒の松あらしといひて吹きかへしてよ

  である。「あらし」は「嵐」と「在らじ」の掛詞であり、曙覧壮年の気負いや厭世観が感じられる。曙覧の隠棲に際して妻は親戚から離縁を勧められたが聞かなかった。
 三十七歳で山を下り、福井郊外の三橋に家を新築して移転する。藁葺で二階建ての小さな家であり、藁屋と号した。七年後に火災で焼失し、平家として再建、終生をここで暮らすことになる。

  野辺に、藁屋作りて、はじめて移りける頃、妻の、かかる所の住ひこそいと恐ろしけれ、聞き給へ、雨いみじうなん降る、盗人などの来べき夜の様なり、など呟くを聞きて
春雨の漏るにまかせてすむ庵は壁うがたるるおそれげもなし
膝いるるばかりもあらぬ艸屋(くさのや)を竹にとられて身をすぼめをり

寺子屋を開き、寺子・門弟の礼金とわずかな書き物の代金を収入源とする。生活は極めて困窮しており、ある歌の詞書には「塩を無くしてかへかしといひけるに、銭なくして買へざるなり」とあるほどであった。この時期に詠まれたのが連作「独楽吟」である。

米の泉(ぜに)なほたらずけり歌をよみ文を作りて売りありけども
たのしみは艸のいほりの筵(むしろ)敷きひとりこころを静めをるとき
たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時

 四十三歳のとき大病を患うが治癒する。四十九歳のときに学友の富田礼彦と再会。五十歳のときに門弟二人と長男今滋を連れて旅行する。京都で歌人の大田垣蓮月と出会い、以後没するまで交流を続けた。
 五十四歳のとき、福井藩主松平春獄が曙覧の家を訪れる。このとき春獄の命令で藁屋を「志濃夫廼屋(しのぶのや)」と改名した。

  二月廿六日元治二年乙丑、宰相君、御猟の御ついで、おのが艸盧にゆくりなく入らせ給へる。ありがたしともいふはさらなり、ただ夢のやうなるここちして、涙のみうちこぼれけるを、うれしさのあまりせめて
賤夫(しづのお)も生(いけ)るるしるしの有りて今日君来ましけり伏屋(ふせや)の中に

 前年に春獄から煙草を拝受しており、五十六歳のときには藩主松平茂昭から人格を称えられて十俵の扶持米を賜った。五十七歳の五月に病床につく。越前藩に会津征討の命が下り、出征する門下の藩士を激励する歌を詠んだ。王政復古の勅令を喜んだが、同年八月二十八日、明治改元の十日前に死去。没後、長男今滋が橘曙覧自選の第一集~第五集に「福寿艸」を補遺として加え、『志濃夫廼舎歌集』を一八七八年(明治一一)に刊行。

死ぬべしと思ひさだめし吾(わが)やまひ医師(くすし)くるしめ何にかはせん
さしたつる錦の旗の下に立つ身をよろこびて太刀とりかざせ

 【参考文献】
辻森秀英『定本橘曙覧歌集評釈』(明治書院、一九九五)
奥村晃作『ただごと歌の系譜』(本阿弥書店、二〇〇六)


受容・主要歌人の一首評

 まず『和歌文学大系 74』の解説から受容史をみてみたい。なおここでは触れないが、解説者は近世歌人のなかで曙覧を特別視することに疑義を唱えている(曙覧は人間関係に恵まれていたため歌集が出版された。同程度の歌人はほかにもいただろう。という考え。)。
 明治初期に出版された『志濃夫廼舎歌集』(一八七八)は、正岡子規「曙覧の歌」(一八八九)によって絶賛される。歌集を子規に貸したのは佐々木信綱である(「福井の一日」)。信綱が『近世和歌史』「徳川末期」(一九二三)において曙覧を高く評価したことの意味は大きい。昭和前期になると皇国史観が相まって評価が定着した。
 なお、大正末期に「曙覧研究会」が発足されていたらしい。

 青空文庫では子規「曙覧の歌」のほか、折口信夫「橘曙覧」「橘曙覧評伝」を読むことができる。前者は曙覧の勤皇の志について述べたもの。後者は評伝のあと『志濃夫廼舎歌集』から歌が抄出されており、折口の評価を見ることができる。
 
 以下、国会図書館デジタルコンテンツの全文検索機能を用いて、主要歌人が橘曙覧の一首評を抜き出してみたい。ここでは戦前の書籍に限る(雑誌は手に負えなかった)。本noteに既出の歌は選ばない。茂吉のみ例外的に数首にわたる鑑賞文を乗せた。

亡き母を慕ひ弱りて寝たる児の顔みるばかりうき事はあらじ
 知人の妻のみまかりたる吊のうたなり。初二の句最も威深し。泣きて泣きて泣きつかれて、しばし寝入りたる幼児のやせし面わげに断腸のくさはひなるべし。

佐々木信綱『国歌評釈』(人文社、一九〇三)

  平泉寺の僧都と万松山にゆくとて足羽山を舟にてくたりけり川つつきに見およほさるる物ともを題にして人々歌よみけるに、狐橋を
 川岸の崩れにかかるきつねはし脚の繁みに見えかくれする
彼の写実的真情的の傾向は己にこれ等の歌の上に顕れて居る。彼は決して歌の鋳型のために我想を製造しない。彼は我想の横溢によつて、生命ある歌の領域を開拓しようと黽めつつあるのである。従つて生硬なる作品を交へるのは、毫も彼の価値を傷つけぬのみか、却つて益々其の工場的の活動を認識し得て面白い。此の歌は大賛成ぢや。下句が非常に活動して居る。「かかる」は、やや上句を散文的にせし惧れあり。

島木赤彦「橘曙覧」(「北牟呂」一九〇三・十二~一九〇四・九)

 しぼれ糸網につくりて魚とると二郎太郎三郎川に目くらす
 曙覧の傑作の一つではないかと思ふ。こぼれ糸で網をつくつて、魚をとると騒ぎ立てて居る太郎次郎三郎等の風貌さながら眼の前にある。想といひ、調といひ明治以後の新興の歌人の作にも容易に見出せないものある。

百田宗治『児童をうたへる詩歌 : 万葉より現代まで』(厚生閣書店、一九三一)

 天皇は神にしますぞ天皇の勅としいはばかしこみまつれ
神にしますぞ、畏みまつれ、一億の臣民よ、一切を捧げるのが、皇国の臣民道である。畏みまつらぬ者のある筈がない。まつらふが故に、日本の国は栄え、吾々臣民も栄えて来たのであり、将来も栄えるのである。私は此の曙覧の歌を、今は大東亜に、否欧米にまで高く叫び度いのである。

斎藤瀏『防人の歌』(東京堂、一九四二)

 湧く清水岩根ながるる雲汲みて鶴飛ぶ山に松風を煮る
 この筆は眉根つくろふ筆ならず山水かきて背に見する筆
 路のべの桑の立木も沢水の中になりたり春の雪どけ

これは橘曙覧の歌であるが、その声調には従来の歌に無かつた新味があり、漢詩漢画あたりの趣味をも自由に取入れ、中世期の影響を受けたのとはまた別様の影響の受け方をして居り、蕪村あたりが漢詩の影響を受けた受け方と似たやうな結果を示してゐる。ただ漢語をその儘用いずにくだいて大和言葉にしてゐるのは、これは短歌の形態に本づく自然の行き方のためであつた。
 さういふ新味があつたために、明治新派和歌の勃興した時には、新派歌人によつて曙覧の歌調が取入れられた。これは直文も、子規も、鉄幹も多かれ少なかれ曙覧の影響を受け、その模倣をしてゐるところがある。(中略)
 この曙覧の歌が新派歌人によつて飛びつかれたのは、歌は単に理論のみによつては何も出来ないといふことであり、何か実際の作物に頼る必要があるといふことを証拠だてて居るのである。
 その頼るべき実物の一つに曙覧の歌はされたのであるが、其は曙覧の歌には、此処にも三首示したごとくに、一つの習癖、傾向、身振、言ひぶり、ポーズがあるので、さういふ特徴が当時の新派歌人に好かれたためであつた。

斎藤茂吉『童馬山房夜話 第2』(八雲書店、一九四四)

連作鑑賞(1)「蕎麦いだしてもてなしけるを……」

  蕎麦いだしてもてなしけるを、あまた食ひて戯れに
蕎麦の実の角をとりたるあるじぶり円く居よりて腹つづみうつ

〔通釈〕蕎麦の実の上皮の角をとったように角ばっていないまるい礼彦のもてな方よ。大勢が円座を作って蕎麦を沢山食べて腹一杯になった。


 帰りかかりけるに、はるばる送り来て今は別れむとするに、礼彦はたここの任果てて、日を経ずその国に帰るべきなりと聞けば、
衣手の飛騨は百重の山のあなた君も又来じ我れも行きえじ

〔語釈〕「帰るべきなり」帰らなければならぬことだ。「衣手の」枕詞。
〔通釈〕飛騨の国は幾重にも重なった山の向こうである。君も再び来ないだろう、我もまた君の国へ行くことはできないだろう。


君も来じ我も行きえじと思へども又ゆくりなく逢ふこともあらむ

〔語釈〕君も越前には来ないだろう。我も飛騨へは行くことはできないだろうと思うけれども、また偶然に逢うこともあるだろう。
※語釈・通釈はは辻森秀英『定本橘曙覧歌集評釈』(明治書院、一九九五)による

  越前の掘名といふ所に銀鉱が発見され、飛騨の富田礼彦といふ人が、公の名を蒙つてその長官をしゐた。曙覧はそこに見物に行き、鉱坑の様を見、礼彦の馳走になりなどした。この歌は、その分かれの時の詠である。(…)
 恐らくこれが生涯の別れであらうと思つても、心持をそこまで持つて行かず、具体的に、「君もまた来じ我も行きへじ」と言つてゐる、そこにより多くの真実が漂つてゐる。さうは言ふものの、路の遠いといふ事は相応に大袈裟にして、「衣手の飛騨は百重の山のあなた」と言つてゐる。大事な所は何処までも真実を守つてそれ程でない所は余裕を持たせて、手加減をした言ひ方をしてゐる所に、芸に対しての心持が窺はれる。

窪田空穂「橘曙覧の歌」(『窪田空穂全集』10、角川書店、一九六六)


連作鑑賞(2)「聚蟻」

  聚蟻しゅうぎ
庭潦天時にはたづみあめのときをばしらではとみなごろしにはありもこりけむ

〔語釈〕「にはたづみ」は枕詞。「天」には「雨」が掛かっているか。
〔歌意〕いつ雨が降るか知らないではいられないと、皆殺しにあった蟻は懲りただろう。


かすかなる蟻も力もあはすれば我に千重ちへます物をゆるがす

〔歌意〕微弱な蟻も協力すれば、自分の千倍の重さの物も揺さぶることができる。


楯矛たてほこふせあだまつつはものののりいでくる土あなの蟻

〔語釈〕「つはものの法」は『韓非子』のこと。「千丈の堤も、螻蟻ろうぎの穴を以て潰ゆ。」を踏まえている。
〔歌意〕盾と矛を伏せて敵を待つ方法を説く兵法に登場する土の穴の蟻だ


地上つちのうへおちて朽ちけむくだものなかごくろめて蟻のむらがる

〔語釈〕「瓤(中子)」はウリ類の果実の種を含む中心部分。
〔歌意〕地面に落ちて朽ちた果実の中子に黒ずむませ蟻が群がっている


群よびにひとつはしると見るがうちに長々しくもつくる蟻みち

〔歌意〕餌を見つけて群れを呼びに一匹が走ったと見ているうちに、長々しい蟻の行列ができている


ものかげに穴はかならずよりてほる蟻はいくさのりうまくえて

〔歌意〕穴は必ず物陰に掘る、蟻は上手に軍法を会得しているので


縦横に群ひく蟻のすみやかさたへに軍の法をそなへて

〔歌意〕蟻はすぐさま縦に横に群れを伸ばす、巧妙に軍法を身に着けているので


蟻と蟻うなづきあひて何か事ありげに奔る西へ東へ

〔歌意〕何か用事があるように蟻と蟻がうなずきあって西へ東へ走っていく

蟻の生態をこまかに見て、これを写生的に描き出しているのであるが、その見方、とりあげ方は多分に俳諧的である。

山崎敏夫「橘曙覧」(『日本歌人講座 第5』弘文堂、一九六九)


雨の華ひとつこぼるる露の音にありたまりえぬ石上いしのうへ

〔語釈〕「たまりえぬ」は「堪り(=我慢する)」と「溜り(=集まる)」の掛詞。
〔歌意〕花のように広がった一粒の雨のわずかな音に、蟻は我慢できずばらばらになった。石の上のことだ。


※語釈・歌意は久保田淳監修『和歌文学大系 74 布留散東・はちすの露・草径集・志濃夫廼舎歌集』(明治書院、二〇〇七)を参考にした


連作鑑賞(3)「蝨」

  しらみ
着る物の縫め縫めに子をひりてしらみの神世始りにけり

〔語釈〕「ひる」は「放る」で卵を産む、産みつける意。「神世」は伊邪那岐命・伊邪那美命の神産みを指すか。


綿いりの縫目に頭さしいれてちぢむ蝨よわがおもふどち

〔語釈〕「おもふどち」は気の合う友達の意。「ちぢむ蝨」に自分を重ねる。


やをら出てころものくびを匍匐はひありき吾に恥見する蝨どもかな

〔語釈〕「恥見する」は恥をかかせる意。

第一首は、我が蝨ではあるが、蝨そのものを主として詠んだものです。大体をいつたのです。第二首は、蝨をあはれんでゐます。蝨がその本性として、頭を縫目にさし入れて、縮こまった格好をしてゐるのを、周囲へ気がねして、さうした格好をしてゐるのだと見、ちやうど自分のやうだと思つてあはれんだのです。第三首は、蝨を憎んでゐます。憎むといつても軽い程度のもので、お構ひなしに這ひまはるので、人に見つけられて恥をかいてしまつたといふので、戯談半分の憎みです。三首全体で、自身に関係のある蝨の世界をいひつくしてしまつてゐます。

窪田空穂『江戸時代名歌選釈』(理想社出版部、一九二九)

※語釈は久保田淳監修『和歌文学大系 74 布留散東・はちすの露・草径集・志濃夫廼舎歌集』(明治書院、二〇〇七)を参考にした


連作鑑賞(4)「此わざ物しをるところ……」

  人あまたありて此わざ物しをるところ見あぐりありきて
日のひかりいたらぬ山のほらのうちに火ともし入りてかね堀出す

〔語釈〕「此わざ物しをるところ」は銀の採掘に従事している現場を指す。「洞のうち」は銀山の坑道。
〔歌意〕日光の当たらない山の坑道に入って銀を採掘する。


赤裸あかはだか男子をのこむれゐてあらがねのまろがり砕く槌うちふり

〔語釈〕「赤裸」は「まはだか」と読む説もある。「あらがね」は精錬する前の鉱石。
〔歌意〕全裸の男たちが群がって粗金あらがねの銀塊を打ち砕く、槌を振るって


さひづるやからうすたててきらきらとひかるつちくれつきてにする

〔語釈〕「さひづるや」は「から」に掛かる枕詞。「からうす」は唐臼で、臼を地面に埋めきねの一端を踏んで動かす。ここでは銀鉱石を粉砕するのに用いる。
〔歌意〕唐臼を備えて、きらきらと輝く銀塊をついて粉にする


かけひかけとる谷水にうち浸しゆれば白露手にこぼれくる

〔語釈〕「筧」は水を引くために多く竹筒でつくられた水路。
〔歌意〕懸樋かけいをわたして引く谷川の水に粉にした銀塊を浸し揺すれば、白露のような銀が手にこぼれてくる


黒けぶり群りたたせ手もすまに吹とろかせばなだれおつるかね

〔歌意〕黒煙を群がり立たせて手も休めずにふいごの風を送って熔解させると、銀がなだれおちてくる


とろくれば灰とわかれてきはやかにかたまり残る白銀の玉

熔解すると灰と分離した白銀の玉が鮮やかに固まって残る

しろがねの玉をあまたにはこ荷緒にのをかためて馬はしらする

〔語釈〕「荷緒」は馬や車に荷物をくくりつけるための縄。
〔歌意〕銀の玉を数多く箱に入れて、縄で固定して馬を走らせる。


しろがねの荷負へる馬をひきたてて御貢みつぎつかふる御世みよのみさかえ

〔語釈〕「御世」は天皇の治世を敬っていう語。
〔歌意〕銀の荷を背負った馬を引き連れてみつぎを献じる御代の栄華よ


採鉱溶鉱より運搬に至るまでの光景仔細に写し出して目るがごとし。ただに題目の新奇なるのみならず、その叙述のたくみなる、実に『万葉』以後の手際なり。(…)さわれ曙覧は徹頭徹尾『万葉』を擬せんと務めたるに非ず。むしろその思うままを詠みたるが自ずから『万葉』に近づきたるなり。しこうして彼の歌の『万葉』に似ざるところははたして『万葉』に優るところなりや否や、こは最も大切なる問題なり。

正岡子規「曙覧の歌」(「日本」日本新聞社、一八九九・三)


この歌は、鉱山の全部の光景を叙してしまつたあと、この銀のあらはれてゐるといふことは、やがて御代の御栄えであるとして、天皇の御代を賀したのです。尊王の心の極めて深かつた曙覧としては、この賀の歌は添へなくてはゐられなかつたものを見えます。(…)その添へ方は自然で、目立たないものです。それは、いつてゐる事柄は、前の歌と同じもので、形から見ると、繰り返しのやうに見えるからです。

窪田空穂『江戸時代名歌選釈』(理想社出版部、一九二九)

一首づつ見れば、それぞれ独立した一首としての味を持つてゐる。一連を通じて見ると更に統合し統一された味がある。一首毎に句法の変化があつて、全体の上に曲折を持つてゐる。事実を為してゐるばかりでなく、一種の気分を醸し出してゐる。事毎に強意の眼を瞠つてゐる朱美の顔を思はせるのである。
 曙覧のかうした連作は系統としては、真淵を通じて、直ちに万葉に接触し、翻つては現代へつながつてゐる。見逃しがたいものである。

植松寿樹「橘曙覽」(『短歌講座 第七巻』改造社、一九三二)

これらの歌は、最後の一首をのぞくと、すべて客観的な詠み方をしてゐます。情景を、順序を追うて、細かく描写してをり、主観的な言葉は全く使つてゐないのです。(…)ただ物を形だけを見て描くのではありません。形を描いてゐるだけのやうに見えても、その物に宿る心を捉へてゐるわけです。

谷馨『勤労秀歌』(新教出版社、一九四四)

連作鑑賞(5)「病床にありけるままに……」

  五月廿八日より病床にありけるままに、野山のけしきも見がたく、臥してのみありけるにより、つれづれなぐさむため、大きなるうつはものに水いれ、小き魚放ちおきて朝夕うちながむ
たたへつる器の水にひれふらせ海川見ざる目をよろこばす

〔歌意〕満杯の器の魚に鰭を振らせ、海川を見れない自分の目を喜ばせる


顔のうへに水はじかせて飛ぶ魚を見かへるだにも眉たゆきなり

〔歌意〕顔の上で水を弾いて飛び跳ねる魚に目を向けることさえ眉がくたびれるのだ


窓月まどのつき浮べる水に魚躍るわが枕辺の広沢ひろさはの池

〔語釈〕「広沢池」は現在の京都市右京区広沢にあるため池を指す。寛朝僧正が遍照寺を創建した際につくられたとされ、古来月の名所として人々に親しまれていた。
〔歌意〕窓を通った月が映る水に魚が飛び跳ねている、私の枕元にある広沢池だ


ひれはねて小き魚のとぶ音にるともなくて寐る目あけらる

〔歌意〕小さな魚の跳ねて飛ぶ音に、眠るでもなくうつらうつらと寝ている目を開いた。

この一連の歌は、自身の状態を主にした詠み方で、叙事性の勝つたものであるが、連作としての進展、変化は、気分の変化によつて統一せられてゐるもので、叙事性の連作であるとは云はれない。自身を客観視した歌は、曙覧には多くあつて、その広がりを持つたものと見られる。心境的な作品であつて、近代性を帯びたものであると云へよう。彼の、純抒情の連作の歌と、叙事性の連作の歌とは、ここに融合されている観のあるもので、彼の代表的な一連の歌と云ふことが出来る。
 この一連の歌は、終焉前一、二ヶ月の作品で、彼の生涯の最後の歌と云つてもよいものである。

辻森秀美「橘曙覧」(『歴代歌人研究 第10巻』厚生閣、一九三八)

恰も明治代の正岡子規の境地である。而も其よりも、深く没入する所があり、又、時代の早さから来るうは調子の中にも、彼らしいものがある。

折口信夫『橘曙覧評伝』(日本精神叢書、教學局、一九四一)










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