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カメラは目、と、とらえる。

目は四六時中稼働している。目をつぶらないかぎり、なにかしら見えている。目を閉じても映像が残っていたりする。

歳61になるけれど、生まれてこのかた、いったいどれだけの画像を脳に蓄積してきたのだろう。途方もないことだ。

見たものは脳のどこかにずっと保存されている。ひゃー。

そう考えると「写真を撮る」という行為が、いかに作為に満ちているか、、。シャッターを押す瞬間「自分」の我が働いているのだから。

なんか面白いぞ!記録しておこう、

iphone11でパシャ。

仲睦まじいご夫婦が来宅。

ちょっと構えて、自然光、ミラーレス一眼50mmf8でパシャ。

家そばの景色を眺めて、快晴だ、、

中判フィルムでパシャ。

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その都度、何かしら考えて撮っている自分がいる。カメラを持って行動している時点で、何かしらの目的をもって撮っている。程度の差はもちろんあるけれど、無になって撮る、なんてことはないのだ。

目で見る、という行為も、なんとなく見えている、と、凝視している、は違う。カメラは目。フィルムやハードディスクは脳。機能の差は歴然だけど、そういうことだろう。

写真は「記録」と「表現」の行為というけれど、、

「記録」は残したいから。あとで確認したいから。記憶も一緒に残したいから。忘れっぽいから。瞬間を止めて、形として残したいから。

「表現」は?、、考えれば考えるほど深みにハマる、、。

凡人はともかくパシャパシャ撮りながら形にしながら撮ったものを見て感じる日々を送ろうと思う。自分以外のいろいろな目<カメラ>から見える事象を切り取る日々を。

目を、メンテナンスしたい、今日この頃です。

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