ジル ← 神を信じぬ者

朝陽がまだ昇り切っていない時間から、ジルはもう目を覚ましていた。いや、正確に言うと完徹したまま本を読み耽っていた。
朝陽が眩く大聖堂を照らし始めると、その光に反応して鐘が鳴り始める。その音を耳にしてし、ようやく彼は自分がまた睡眠よりも読書を優先してしまったことを知る。
「しまった、またやってしまった」
大急ぎで本を片付けると、足早に階段を駆け上がる。そのまま渡り廊下を駆け抜け、しかし大聖堂に入ってからは足音を立てないように注意深く歩いた。
夜を越すまで図書館に入り浸っていた事がバレると、しばらく図書館への入館時間を制限されてしまう。過去三回の経験から、ジルは大聖堂の大理石の床の上ですら、一つの足音も立てずに歩く術を身に付けていた。
彼にとって、知識を得る場を奪われる事は何より耐えがたい事なのだ。
「ふう、なんとかなった」
自分の部屋に入って、やっと彼は安堵の声を漏らした。
彼の部屋は元物置部屋だったせいもあり、小さなベッド一つと本が三冊置ける程度の机しか無かった。だが、彼にとっては十分過ぎる幸せだったし、本はいつでも図書館で読めるから、何も不自由はしていなかった。
「さて、仕事に行かなくてはな」
そう言うと、如何にもいま身支度が整ったかのような顔をして、ジルは部屋を出た。
そして扉を開いた瞬間、驚きで悲鳴をあげそうになった。目の前に初老の男が、怪訝な顔つきで彼を睨んでいたのだ。
「お、おはようございます…。ペイジ先生」
「おはよう、ジル。随分と早起きだな、感心な事だ」
ペイジ館長は言葉とは裏腹に、鋭い目付きで彼を睨み続けた。静かな怒りを携えたその眼には、老いではなく年季によって確かに刻み込まれ続けた力強さがあった。
「……だが不思議だな。私は君よりも二時間は早く起きて大聖堂を巡回して回っていたのに、どこを歩いても君の声は愚か、影一つ見かけることはなかったのだが」
「そ、それはですね」
ジルがたじろいで、何か適当な言い訳をしようと目を逸らした瞬間。
「また夜通し図書館にいたな!身体を壊すから、夜はちゃんと寝ろと何度も言っただろう!」
ペイジの怒声に反応して、反射的にジルは駆け出していた。
「ごめんなさい!先生!もう二度と同じ過ちを繰り返さないように、善処していく所存であります!」
「それ!反省だけして、またやる奴の台詞だろう!」
ツッコミの言葉が遠去かるのを聞きながら、ジルはまた図書館へと走って行った。
毎朝、だいたいこの繰り返しだった。本当は朝早く礼拝をして大聖堂を廻り、食事や身支度を整えて、大図書館前の書物の神に礼拝を捧げてから仕事に就かなくてはならない。しかし、ジルはそれを拒んでいた。既に蔵書の半分近くを読み終えた彼の結論としては、
「神はいない」
「今尚、信仰として形の残るものは全て社会を守る為の建前」
というモノだった。
だから、彼は神を一切信じていない。もしも本当に神とやらがいるのならば、その慈愛を欠片でも与えてボクに魔力を授けてくれていたに違いない。彼はそう、考えていた。
「おはようございます…」
先程とは違う、覇気の無い声で図書館へと入る。ペイジ館長は親のように自分を育ててくれたから信頼していたが、他の人間は別だった。彼の生まれや、その容姿に対してヒソヒソと陰口を叩き、誰も彼と対等に付き合おうなどとは考えなかった。
だが、彼にはそれが心地良くもあった。人付き合いによる余計な摩擦を感じる事も無いし、好きなだけ自分の好きな本の世界に没頭出来る。だから、彼は自分を不幸だなどとは全く思っていなかった。
「さて、今日は魔導の書の三段目だったかな」
彼の仕事は単純明確で、それ故に量も多く、果てしなかった。大図書館の蔵書すべてをその種別ごとに整理し、本の内容、劣化具合、棚の位置など全てを任されていた。世界樹の根元から見つかった正体不明の少年は、意外なほどに言葉も文字も流暢に扱うことが出来た。それを知恵の神の使いだとロキ教皇が後押しした事で、彼は図書館へ勤める事となったのだ。
無論、それはあくまで口実に過ぎない。およそ魔力を欠片も持たない者に出来る仕事といえば、力仕事か雑用しかなかったのだ。だから、文字が読めて書けるという点は、理由は不明だが彼にとって不幸中の幸いだったのかも知れない。
しかし、彼はそれにより神の物語を学び、歴史や学問などに結び付ける過程で、神はいないとの結論に辿り着いてしまった。皮肉な事に、神の教えを説いて彼の存在意義を確立したことによって、彼は神を信じる事を止めたのだった。
「神様がいるなら、ボクは今頃普通の幸福な人生を送っているはずだよ。ボクがいま独りなのが、まさに神がいない証明だ」

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