「silent」を語りたい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 昨年フジテレビで放送した「silent」。ハイパー端的に説明すると中途聴覚障害が発症した想にまつわるなんやかんやである。


 僕の傾向として創作物はあれこれ言いながら摂取するのが楽しいので、考察したり批判(いい意味で)したりしながら見ている。が、おそらく初めてこのドラマは批判のしようがなかった。人と人との関係が非常に丁寧に描かれていて、かつ聴覚障害に対する嫌味や圧もなかった(それ自体は描かれているけれどドラマの筋として視聴者に対して良し悪しは断定してなかったように思う。「そう思う人もいる」というスタンス)。

 誉れは山ほどあるのでちょっと列挙してみる。けど今回はこれら全部すっ飛ばして別のところと繋げてみたい。
◯湊斗3本問題の多様性の面白さ
◯居間から動かず話しかけた想ママ
◯「関係ない」と言い切れる紬ママ
◯25〜30歳にとどめを指す選曲(ex:スピッツの「魔法の言葉」)
◯ハンドバック問題
etc......

 特に家族の話は個人的にやり出すとキリがないので割愛。ドラマを見終わってしばらくたった今現在、「人が助かる」ことを考えたい。化物語シリーズの忍野メメの「助けない、自分で勝手に助かるだけ」が真理のような気がしている。



 ドラマで描かれた部分だと、想の転機は当然湊斗である。
 なぜ紬じゃないかというと紬はあくまで恋愛相手なので想の社会を広げるという意味では湊斗の存在が非常に大きい。紬だけだと「恋人関係」という閉じた世界に帰結もできちゃうから。
 湊斗が紬ちゃんと別れたことの是非は別にしても、想の世界を広げたのは間違いなく湊斗だし、その湊斗は「想を助けたい」と思ってやってないのが重要なポイント。
 湊斗は一貫して聴覚障害を発症した想に対して「聴覚障害者」扱いではなく「高校の同級生」として接していた。友達と遊ぶことは「助ける」でもなんでもない。ただ楽しく遊びたいだけだからである。
 そのことに想はとんでもなく救われる。高校時代に築いた関係性が聴覚障害のせいでなくなったと思っていたけれど、実際はそうではなかった。だからふざけ合いもするし名前も呼ぶし元カノ今カノの話もする。ここには障害があるとかないとかまったく関係ない。あってもできるし、なくてもできる。

 湊斗から見ると自分は助けてないのに想は助かっている。ここが忍野メメの「自分で勝手に助かる」につながる。忍野メメは一貫して上記のセリフを作中で述べていたが、これは自戒なんじゃないかなと思う。戦場ヶ原さんも阿良々木くんも羽川さんも八九寺も神原も撫子もみんな助けられたと思っているけれど忍野メメは助けたと思ってない。なぜなら忍野メメが助けたと自覚すると「助けた人」「助けられた人」という明確な上下関係が発生してしまうから。実際の行為(戦場ヶ原さんのお祓い、阿良々木くんのヴァンパイアハンターマネジメントなど)として助けていたとしてもメメとしては「阿良々木くんが勝手に助かるのを手伝う」くらいのニュアンスなのかも。「手伝う」だと圧が強いので「自分にできることはする」くらいのニュアンスかな。

 湊斗もそんな感じだったんじゃないかと思う。想に対してどうこうというより想と遊びたいからどうこうということ。そこには自分も入るから関係性が上下にならないのがよかったのかもね。



 こうやって作品と作品をつなげてテーマとか主軸とか共通点を探すのがとても楽しい。メイドインアビスの「価値の創造」とかは現代の多様なコンテンツと紐づけられると思う。

 YUKIの「うれしくって抱き合うよ」が地上波ゴールデンで映ったときに叫んだのは僕だけじゃないはず。みんなYUKI聞こ、と言うのが今回のまとめ。