コンプレックス・アナリシス
10代のころ、周りに認められたくて頑張る自分がすごくコンプレックスでした。テストでいい点を取ればチヤホヤされて、先生や友達から一目置かれる存在になって、それが何よりの快感で、またその気持ちを味わいたくて頑張る。ただ目の前の人たちに気に入られてさえいればいい。そういうその場しのぎの努力しかできない自分がすごく嫌いでした。
一生懸命勉強して、褒められて、それなのに心は空っぽで、燃え尽きたように何も手につかなくなって。自分は何のために頑張ってるんやろ、そう思わずにはいられない時間がたくさんありました。そのたびに「頑張る理由」を探してきたけれど、まわりに褒められたい、よく思われたい、それしか私には見つけられなかった。自分の将来のためとか、そんなことも考えてみたけれど、いまのこの努力が、未来まで届くほど立派なものだとは思えなくて、ただ目の前の蜜を吸って生きのびるためだけの、私利私欲にまみれた平凡な理由しかもてない自分が大嫌いでした。
そんな私を、人の評価なんてどうでもいい、自分のやりたいようにやればいい、いろんな人がそう言って励ましてくれました。でも、私自身がほんとうに心からそう思えたことは一度もなかったように思います。私には「自分のやりたいように」と「人から評価されるように」は同じことのように思えて、誰かから褒められることを期待しなければ、そんなに一生懸命になれないし、何かをやりたいとすら思えない、だから、人の評価を気にしないなんて絶対に無理だ!といつも心の中で叫んでいました。
認められたくて頑張っている。
みんな少なからずそう思う節はあるんじゃないかなと思います。でも、それを公にするのは恥ずかしいことなんだと、この社会は悲観的に捉えてきっと認めてはくれないから、将来のためとか、恩返しのためとか、私たちはもっとクールで論理的な理由を探して、辛くなったときの心の拠り所にするんだと思います。そうやって自分なりに意味づけていくことはまったく悪いことではなくて、この世界ではむしろ普通のこと、みんなが通る道なんだと思います。それなのに「褒められたい」「認められたい」私はそんな強欲な考えをいつまでも手放せなくて、そのことがずっとコンプレックスでした。
いまだに私は褒められるためにしか頑張れないと思います。あのころと同じように、人の評価を気にしないなんて絶対に無理だと思っているし、相変わらず、周りに認められたい一心で生きているけれど、それが恥ずかしいとか、かっこ悪いことだとはあまり思わなくなった気がします。
どんな理由であっても、ものごとに対して一生懸命取り組めることは一つの才能なんだと思います。だから、たとえその人の裏にエゴが見えてしまっても、嫌悪せず、一生懸命やっている姿に目を向けてあげてほしい。此処がそんな優しい世界であることを心から願っています。
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