暑ぅぅぅぅ。100分de名著「荘子」を視聴しますた。

毎日、毎日暑いですね。

今日はお休みでしたが、休みで家でいても2階の部屋なんて38℃。

もう、地獄ですね。

逃げ場がありません。

クーラーを発明してくれた人にノーベル賞をあげたい。

感謝!

「荘子」は私が最も好きな哲学者です。哲学科に進学するきっかけになった人であり、本です。

まさに自由であり自遊の哲学。私自身を体現していますね。

キーワードは「遊」。

「游」の字もいいですね。こちらも遊ぶの意味だけど、泳ぐの意味も込められています。若いころはよく川泳ぎをしたもんですが。

流れに身をまかせつつ游ぐ。潜る。

万物斉同。

深く深く心の奥深くにまで潜る。

自分が居なくなる境地まで。

心が神(こころ)になるまで。

『荘子』斉物論第二

原文
昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。
周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
書き下し文
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

朝三暮四
猿回しが『朝は3つで夜は4つだ』と猿に団栗を与えようとしたが、猿はこれに怒った。『では朝は4つで夜は3つだ』というと猿は喜んだ、という説話である。結局は1日7個の団栗を食べているということで、どちらも同じで、相対するものを考える人間も同じようなものだと荘子は説く。
「吾が生や涯てありて、知や涯てなし」
人の一生に限りがあるのに、知にはその限りがない。限りのあるものの中で限りないものを追いかけてもただ疲れるだけだ、ということを説く。
「大知は閑閑たり、小知は間間たり」
立派な知恵は悠々としているが、つまらない知恵に惑わされる人間はせこせこしている、ということである。


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