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村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」読了

昨日の深夜、新潮文庫版の下巻を一気に読み終えました。

作品に出てくる、カセットテープという言葉が妙に懐かしかったです。

出版年が1985年だそうだから、執筆されていたのは、ロスアンゼルスオリンピックが開催された、1984年ころでしょうか?そうだとすれば、僕は小学校6年生だったということになりますね。12歳の年男だった僕がいた頃の物語を、48歳の年男になった僕が読んだわけですが、「ハードボイルドワンダーランド」の中で描かれている描写には、音楽媒体としてのカセットテープ以外に"昔"を感じることはなく、むしろ洒落た現代を読んでいるような錯覚を覚えました。

物語の主人公は35歳ということでしたので、現在は71歳。団塊の世代ということになるのですね。村上春樹さんの文章って、常に現代に成り続けていくような表現力があるのかもしれません。

物語は、「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の二つの物語が、交互に描かれています。読み始めの頃は、全く繋がりのない別の世界だと思っていた二つの世界が、物語の進展につれて重ね合わせのように、シンクロしてきます。その辺の種明かしも絶妙で、能書きめいた説明もないままで、自然に「私」と「僕」の関係性が悟られるようになってきました。

作品を読んでいると、無性に酒が飲みたくなり、タバコが喫いたくなり、ボブディランが聞きたくなり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読みたくなりました。

実際、昨日の夜はYouTubeでボブディランを聴きながら、タバコをふかし、村上春樹さん的な感じを味わいながら本を読みました。今は、焼酎ハイボールをのみ、ラークマイルドを吸いながらこの文章を書いています。

そして、亀山訳の「カラマーゾフの兄弟」を読むと意気込んで、本棚から5冊の文庫本を取り出し、スタンバイさせているのです。きっと私は、「悪霊」も「罪と罰」も読み直すでしょう。そして、もう一度「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み直すに違いありません。

それは、日常がそれを可能にするだけの時間、今まで通りに継続していてくれればの話ではあるのですが。コロナ禍の時代、第2波が押し寄せる厳しい冬の季節が到来しつつありますから、僕に残された時間がそれほど豊かである保障などどこにもありません。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という物語は、ユングの心理学とカミュの実存主義を掛け合わせたような世界を描いています。

日常がいかに脆く、組織的な暴力や疫病、さらには経済的な困窮によって、簡単に崩壊させられるデリケートで貴重な存在であること。。。その認識を改めて持たざるをえない状況に、僕を追い込んでくれたように思うのです。

カール・ヤスパースの言葉を借りれば「限界状況」、ハイデガーの言葉を借りれば「先駆的決意性」、要するに「メメントモリ」なんですよね。常に死を想えと。死とは何か、生とは何か?答えは出ないまま人は生きて死ぬしかないのですが、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の結末が、未完のような状態で終わっているのも、人生というものを暗喩しているからかもしれません。

映画「インセプション」「君の名は」にも通じる、不可思議でありながら、深い思考に裏打ちされた物語。。。せひ、多くの人に読んでもらいたい作品です。

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