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深夜のつぶやき


2016年の自分のツイート。
なんとなく呟いた言葉だったけど、なんだか今になってしっくり来ている。
 


しっくり。

早速余談だけど、しっくり、というのは着物を体に馴染ませる為の仮縫いである「仕付け」が語源らしい。仕付け→仕付く→しつく→しっくり?的な?諸説あり。可愛い響きだよね。


話を戻すと、
人格というのは毎日の選択のうえに成り立つものであり、人格があっての選択ではない、と、私は考えてる。


選択というのは、こんな時どんな言葉を言おう、だとか、今どういう行動をとろう、だとか、そういう選択。生きてりゃ毎分毎秒訪れるものだね。


つまり、「○○な人」というのは厳密に言うと存在しない。
生身の人間の姿というのは誰しも常に流動的であって然るべきだ。

まぁ親や友人に恋人を紹介する時だとか、なるべく簡潔にその人の説明を済ませたい時にそういう物言いをしてしまう事はあるけれど、それはあくまでその人の"傾向"であってその人の人間性を現す"答え"ではない。



こういう話をするとつい
他人にレッテルを貼るのはいけない、とか
私はレッテルを貼られたくない、とか
そういう風に話を持っていきたくなるけれど

実際のところ私が一番危険だと感じているのは、自分が自分にレッテルを貼ってしまうことだ。

ネガティブなレッテルだけに限らず、ポジティブなものでも危険だと感じている。


というかポジティブなレッテルの方が他人への加害リスクが高いとすら思う。



例えばこの世の中には嫌になるほど差別や偏見が溢れかえっていて、その差別や偏見に苦しんでいる人たちがいて、なくなって欲しいと願っている人たちがいる。
私もそのうちの一人で、自分が当事者であってもそうでなくても、様々な差別や偏見に反対の意思を持って生きている。


でもだからといって
「私は差別をしない人間です、偏見を持たない人間です」と自分自身を認定し、清く輝くレッテルを貼ることは絶対にしたくない。

それが"善"だとは思えないのだ。



これはもういろーんなことに言えるが、
自分はそんな事しない!と思い込みすぎると、自分の失言や失態、おかしてしまった罪に気付けないまま、誰かを無意識に傷付けてしまったりする。



正直、偏見なんかに関しては誰しもが種を持ってしまっているように思う。

それも仕方がない。
生まれた環境、歩んできた人生、趣味や人間関係、そういうものが自分と違う人と出会った時、その人の全てを"知る"より先に"想像"をしてしまう。
そしてその想像というのは、今までの人生で得た経験やデータから相手の属性や経歴に近しいものを引っ張り出しては参考にしながら生まれるものだ。そりゃもう、うっすいデータから。

しかしその想像に過ぎない想像を、相手を一人の人間として見つめて向き合わなかったり、実際の事実と擦り合わせず放置しておくとどうなるか。
ただの想像だったはずのものが相手の持つ属性への偏見と成長したり、さらには差別に繋がってしまったりする。

つまり何が言いたいかって誰だって差別をしてしまう可能性があるし、偏見を持ってしまう可能性があるよねってこと。



だから私は自分にキラキラなレッテルを貼らない。


これは「悪いことしちゃうかもしれないけど人間だもん許してちょ」という免罪符ではない。

自分を省みるチャンスを逃さない為の行為だ。

自分を省みるチャンスを逃してしまうのはとても怖い。



良心を持つと同時に、自分がたった一瞬で持ってしまうかもしれない加害性についても常に向き合っていたいのだ。
そんなの楽な人生とはいえないけれど少しでも誠実な人生を歩めるならそうしたい。


全て踏まえると、
私にとっての善は、自分の心の中の悪と戦い続けることなんだと思う。

自分の心を見張って悪いタネを見つけては戦い、打ち勝ち続けること。

それこそが善なのかもしれない。




自分を信じたとしても、自分に盲目にならない事。


盲目にならず、なんなら時には疑いながら、ひとつひとつ選択を続けていく。
○○な人としてではなく一人の生身の人間として積み重ねていく。

そんなことを言い聞かせて明日も生きてこう。
さ、もうすぐ5時だし頭もほぼ働いてないのでそろそろ寝る。

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